どうも、矢島ヒデです。
前回は、巷を賑わす『陰謀論』をテーマに取り上げ、あるがままの世界を捉えることの重要性について書きました。
とはいえ、人間の脳には、常に思考や判断に偏りをもたらす”バイアス”がかかっており、正しくあるがままの世界を見ることは極めて難しいんですよね。
そのため、正しく情報を認識するためには、
「いかにバイアスから自由になれるか?」
が非常に問われます。
特に、今回のコロナ騒動のようなものを正しく理解するためには、そのような偏りを一旦フラットにしなければ、いつもまで経っても真実は見えてこないでしょう。
そこで今回は、我々の思考を狂わせる”バイアス”の正体について解明していこうと思います。
是非、じっくりと読んでみてください。
記事の目次
思考を狂わせる『バイアス』の正体を暴く!

バイアスの正体
先述した通り、人間の脳にはさまざまなバイアスがかかっており、我々が思っているほど優秀なものではありません。
ここで、バイアスという言葉の意味を正確に定義しておきます。
ぼんやりと、
「正常な判断ができなくなることでしょ!」
「世界を歪んで認識しちゃうことですよね!」
くらいに考えていると、どこかで必ず見誤るからです。

まず、バイアスというのは、”系統的な間違い”のことであり、偶然の間違いとは異なります。
これは、非常に多くの人が混同している点です。
バイアスとは、たまたま起こるのではなく、ある理屈に従って起こります。
例えるなら、特定の『色眼鏡』をかけている状態だと考えてください。たまたまその眼鏡をかけるわけじゃなく、何らかの理由があってその眼鏡がずーっとかかっているわけです。
だから、人はいつも同じように間違います。それが”系統的”という言葉の意味です。
そして、バイアスが系統的な現象だとすれば、人間とは”合理的に非合理な存在”だといえます。
なぜなら、非合理の中身は、現在研究されている範囲において全て説明可能だからです。
例えば、偶然に間違いを犯すのであれば、人によって間違い方はバラバラだろうし、仮に同一人物であってもその時々で間違い方は異なります。なんなら、間違わない場合もあるでしょう。
でも、そうじゃない。
人間はある条件が揃ったら、すべて「同じ方法で間違える」というのが系統的に間違うということであり、本来のバイアスが意味するところです。
とすれば、バイアスの発生するメカニズムを明らかにすることは、我々が正しい情報を取捨選択していくにあたって、非常に大きな力になると言えそうです。

そうではなく、人間というのは、
「○○のとき、××という理由で、☆☆な間違いをしますよ!」
と言っているだけです。
人間は非合理的な生き物でどうしようもないんだ、みたいな話は全くしていないので、その点は誤解しないように気をつけてください。
バイアスの種類
バイアスの種類は豊富で、厳密に全てを調べようと思ったら鬼のように出てきます。
それこそ、行動経済学の分野で使われる場合もあるし、認知科学全般で使われる場合もあるし、医学の領域で使われる場合もある・・・。
定義自体はほとんど一緒でも、名称の異なるものがいっぱいあるんですよね。
ただ、それらを全てピックアップしたところであまり意味がないと思うので、ここでは僕が重要だと考えるバイアスを4つだけ紹介します。
恐らく、情報を正しく認識するうえで面倒なことを引き起こすバイアスの9割は、この4つでほぼほぼカバーできるはずです。
是非、参考にしてみてください。
人間の認知機能を大きく狂わせる4つのバイアスとは?

①確証バイアス
まず1つ目に、確証バイアスというものがあります。
これは言ってしまえば、先入観や思い込みのことです。
例えば、
「アイツは嫌な奴だ!」
「悪いのは全てアイツだ!」
という偏見を持って相手を見たとき、人はその相手が嫌な奴であることを証明するような情報ばかりを必死に探し求めます。
そうすると、どうなるか?
自分の直感が”正しい”という前提で色々な情報を取ってきて、どんどんと間違った方向に進んでしまうのです。
これはTwitter上で論争している人々を観察してみると、よく分かるのではないでしょうか。
多くの場合、情報収集の仕方がフェアじゃない。お互いがお互いの確証バイアスにべったりと染まっており、客観的にデータを分析し、何が正しいのかを議論しようとしている人なんて皆無です。
それよりも、自分の考えるイデオロギーのようなものが、いかに正しいかを必死で説得しようとする人ばかりが見受けられます。
これは、「原発が安全なのか、危険なのか?」みたいな議論でも全く同じことが言えます。最近は少しずつ落ち着いてきましたが、特に事故後の1〜2年はひどい有様でした。

ちなみに、科学とは”反証”を探す学問であり、間違っても”確証”を探すようなものではありません。
この点を多くの人は誤解しています。自分の考えていることが、いかに正しいかを証明するのが論文ではないんですよ。
例えば、学者がある仮説を思いついたとき、理科系であれば当然何らかの実験をおこない、その信憑性について確認するでしょう。
で、その目的は何かと言うと、自分の仮説が正しいことを証明するためではなく、自分の間違いを証明するために数々の実験が行われるのです。
そこで何らかの間違いがあれば、その失敗から学んで「なぜ違うのか?」を吟味し、どんどんと精度を上げていく。
そうやって反証を探していくことが、本来あるべき科学的な態度なわけです。
だから、仮にあなたが何か素晴らしい仮説を思いついたとしましょう。それ自体は素晴らしいことです。
ただ、そのアイデアを盲信するのではなく、反証すべく様々な情報に当たってみてください。
自分の仮説では、到底説明できないような事例を探してみる。あるいは、逆のことを証明してしまうようなセオリーを探してみる。
どちらでも構いませんが、とにかく反証を探す癖をつけてみてください。
そうすることで、確証バイアスとのバランスが保たれ、初めてフェアな態度で情報に接することができます。
逆に、自分の仮説の証明ばかり探そうとすると、確証バイアスが強化されるだけで大抵ロクなことになりません。
その点は、ぜひ気を付けていただけたらなぁと思います。
②正常性バイアス
2つ目が、正常性(=恒常性)バイアスです。
最も分かりやすい例は、
「大丈夫、大丈夫。俺は事故らないから!」
というアレですね。
ちょっと考えれば分かることですが、事故や災害というのは、誰にでも等しく起こる可能性があります。なのに、自分だけ大丈夫なんて話は明らかにおかしいわけです。
自分の運転がどんなに上手くても、すぐ後ろを初心者ドライバーが走っているかもしれないし、その車がドンッとぶつかってくる可能性もゼロではありません。
万が一、突然トンネルが上から落ちてくるようなことがあれば、そのリスクを自分1人の力でコントロールすることは不可能でしょう。
それなのに、我々は漠然と「たぶん大丈夫だろう」と考えるわけです。
他にも、今日も東京の人々が安心して暮らせているのは、「東京の直下型の大地震はまだ来ないだろう」と思っているからに他なりません。
でも、いつかは来るんですよ。それが今日じゃない保証はどこにもありません。
では、なぜ今日も来ないと思っているのか?
それは今まで来なかったからです。この正常な状態がずっと続くと思ってしまうのが、正常性バイアスです。

だから、これは我々が生きていくうえで重要な機能でもあるんです。
ただ、時としてこのバイアスが面倒なことを引き起こすと言っているだけで、別に悪者扱いしているわけではないので、その辺は誤解しないようにしてください。
③追認バイアス
追認バイアスとは、自分に都合の良い情報だけを集め、自分に都合の悪い情報は排除する心理のことです。
例えば、株式投資なので「この銘柄は絶対上がる!」と一旦決めると、その後どんなに悪材料が出てきても、絶対にこれから上がるだろうと都合良く解釈してしまうことがあります。
(僕も過去にこれで何度も負けていますね^^;)
その予想が明らかに間違っているにも関わらず、本人の中ではそれで「良し」となるわけです。
でも、その根拠は何も説明できません。
もちろん、
「新商品は好調な売れ行きだし!」
「××さんも上がるって言ってたし!」
・・・みたいな。
無理くりこじつけみたいなことは言えるかもしれないけれど、それは全て後付で探しただけです。
一旦決定を下しちゃうと、それに反する行動が中々取れなくなってしまう。言い換えれば、一貫性にこだわる心と言っても良いでしょう。
これも生きるうえでは重要な機能ですが、状況によっては面倒くさいことを引き起こす原因になり得るのです。
④ピーク・エンドの法則
ピーク・エンドの法則は、上記3つのバイアスとはちょっと違いますが、我々の思考をコントロールしている重要な法則です。
2002年にノーベル経済学賞を受賞した心理学者・行動経済学者のダニエル・カーネマン氏によって提唱されたもので、一言でいえば”終わりよければ全て良し”ということ。
カーネマンはよく物語の文脈で話すため、物語とのセットで理解する人が多いですが、別に物語に限定される法則ではありません。
原理自体は非常にシンプルで、
・インパクトの大きいもの
・差分の大きいもの
・最後に聞いたもの
以上3つに我々はフォーカスしてしまうということです。
・インパクトの大きいもの
要するに、記憶に残るものは何なのかって話なんですが、まず1つ目は『インパクト』の大きいものです。
これは素朴な感覚として理解できると思います。
インパクトの強い出来事は忘れないし、逆に些細なことはすぐに忘れてしまう。当たり前の話です。
でね、大体真実というものは身も蓋もないことだったりするんですよ。
みんなが飛びついて群がるような話、それこそ陰謀論なんてまさに派手の典型だと思うけど、そういうのは大体真実ではない。
でも、人はどうしても派手なほうに考えたくなっちゃうんです。
で、その派手なものを、
「いや、普通に考えたらこうですよね!」
とか言ってしまうわけです。
でも客観的に事実だけを見れば、

・・・っていう。
例えるなら、オシャレ番長みたいなもんです。
当たり前だけど、パリコレに出てくるような服を一般人が街で着てたらおかしいじゃないですか。普通は「え、どうやって着こなすの?」って思うんだけど、陰謀論とかをマジで信じている人たちはそれを日常着だと思っている。
挙句の果てには、自分の考えは全て正しくて、「世界の秘密を人類に伝えていくのは自分の責務だ!」みたいな話になっちゃっているから、ちょっとシンドいんですよね。
・差分の大きいもの
次に、差分(=変化率)の大きいものも忘れにくい。大事なのは絶対値ではなく、人は差分に反応してしまうという点です。
一昔前までは、何かしらのモノを初めて見たとき、人はすぐに適正価格を決められるというのが経済学の常識でした。その値段から著しく高ければ買わないし、逆にその値段よりも低ければ買うという単純な発想です。
しかし、カーネマンたちが色んな実験を通して明らかになったのは、我々の中に『適正値』は存在しなかったということ。
何らかの理由で参照点が一つ決まり、そこからの差分で全てを判断しているため絶対値としての価格なんてそもそも持っていない、というのがカーネマンたちが示したことです。
つまり、絶対値を持たない我々は、ほっとくと差分にばかり反応してしまうようにできているのです。
・最後に聞いたもの
3つ目が、最後に聞いたものの印象は強くなる、ということ。
これを『利用可能性ヒューリスティック』といい、思い出しやすい事例を優先させて意思決定や判断を下してしまうことを言います。
要は、思い出しやすいものをよく思い出すという当たり前の話ですが、逆を言えば思い出しにくいものはほとんど参照されないということです。
先述した通り、我々は物事の重要度に関して”絶対値”がわかりません。
例えば、僕がブログで記事を書き、その中で自分が重要だなぁと思うことを要所要所に散りばめたとします。
でも、多くの人はその内容のほとんどを忘れてしまいます。
なぜなら、みんなが覚えているのは、
・インパクトのある話
・差分を感じられた話
・最後の話
だけだからです。
そのため、合理的に文章を構成しようと思ったら、重要な話をこの3つの領域に固めたほうが良いんですよね。

特に、世の中の一般的なテレビや映画に思考が慣れてしまった人には、凄くわかりにくいはずです。
だけど、そうでない人にとっては、どこに重要な話があるか分からないぶん、集中力も続くし、宝探し感があって面白いと思います。
ちなみに、僕は自分にとって、
「大事な部分はどこなのか?」
「あ、ここが大事なのか!」
みないなことを考えながらやっていくのが勉強だと思っているので、あえて散らしているわけですが。
ただただ分かりやすいものを作りたければ、今回紹介した『ピーク・エンドの法則』を意識して構成するのが最適解だと思います。
報道に及ぼす影響
日本では、年間約11万人の自殺者がいると言われています。
国内メディアでは「3万人超え!」と報じられていますが、これはデタラメです。
日本では「遺書がないと自殺にカウントされない」というナゾの常識があり、これで表向きの自殺者数を大きく減らしています。
しかしWHO(世界保健機関)では、変死者数の半分を自殺としてカウントしているので、本来公表すべき自殺者は年間11万人で間違いありません。
11万人って凄い数ですよね。毎年東京ドーム二個分の人が死んでいるにも関わらず、もはやニュースにすらならない。
何故なのか?
インパクトと差分がないので、ニュースバリューが低いからです。その結果、絶対値としては凄く重要なはずなのに、その話題でニュースが作られることはありません。
当然、マスコミは人々がそれに反応しない、つまりニュースにしても数字が取れないことは重々承知のうえで、大々的に取り上げないわけです。
自殺でニュースになるのは、変な死に方をしたときだけ。リンチやいじめ、有名人の自殺など、何かインパクトがある話題であればニュースになりますが、それ以外は全くと言っていいほど取り上げられません。
一方、芸能人のゴシップネタなどは山ほどニュースになります。なぜなら、一般人にとってインパクトがあるからです。
他にも、どこかで飛行機が落っこちたら、しばらくその話題でもちきりです。恐らく、死者数はせいぜい数百人程度でしょう。
一方、車の事故では毎年5千人以上死んでいるのに、その話題はほとんどニュースにならない。交番の前に『今日の死者数××人』とか書いてあるくらいです。
これもインパクトや差分がないので、人々が慣れてしまっているわけですね。
あるがままを観ることの重要性

バイアスの危険性
ここまでの話をまとめると、以下の通りです。
・人はインパクトの大きいことや思い出しやすいことばかり参照するので、客観的に現象を理解できない。
・人には確証バイアスや追認バイアスがあるので、自分が信じたことをどんどん信じていく傾向がある。
・人には正常性バイアスもあるので、客観的にリスクを計算できない。
そして、これらのバイアスは我々が思っている以上に、とてつもなくクダらないことでも発動します。
例えば、
「こんなの誰も引っかからないでしょ!」
みたいなことでも余裕で引っかかるんです。
これは過去にも書きましたが、カーネマンたちが実施した面白い心理実験があります。
その内容とは、被験者に0から100までの数字が書かれたルーレットを回してもらい、そのあとに「国連に加盟しているアフリカ諸国の割合は何%か?」と質問したのです。
すると、質問の内容と全く関連しない”ルーレットの出目”が、質問の回答に見事に影響される結果になりました。ルーレットの数を見ただけで、脳がその数字に引きずられてしまったのです。
で、この話には続きがあって、

と事前に呼びかけても、結果は同じでした。
さらに、世界中のいろんな大学でも実験がおこなわれましたが、全て同じ結果だったんですよね。
恐らく、この質問の内容がアフリカではなく、アジアやヨーロッパ諸国だったしても同じ結果が得られたでしょう。
つまり何が言いたいかというと、これくらいバカげたことにも我々は引っかかりますから、本当に気をつけましょうってことです。
何かしら関係あるものに引っ張られるというのは素朴な感覚として分かると思います。しかし、何の関係のないものにも引っ張られるというのが、この実験における重要なポイントです。
どうか、バイアスを甘くみないで欲しいと思います。
人間はリスクを計算できない

当然ですが、自分にとってインパクトが大きいことや思い出しやすいことなんて、個人的な都合に過ぎず、客観的な事象とは何も関係ないですよね。
さらに、人には確証バイアスや追認バイアスがあるので、一旦自分が信じたことをどんどんと信じていく傾向があります。
もちろん、最初に信じたことが客観的な真理であれば、何の問題もないでしょう。それは「運が良かったね!」の一言で片付く話です。
だけど、大体そんなことあり得ません。
多くの場合、間違ったことをどんどんと確信していくという構造がそこに生まれてくるわけです。
しかも、人には正常性バイアスがあり、客観的にリスクを計算できないので、
「直感的に怖いものがヤバいんだよ!」
みたいな雑な生き方になってきます。
リスクとは、定義上”確率”のことです。「どのくらいのパーセンテージで、その嫌なことが起こるのか?」という確率をリスクと呼びます。
なので、この計算ができないという状態は、言い換えればリスクを正しく評価できないということと同義です。
例えば、僕はごくごくたまに同世代の友人と呑みに行くことがあります。
会社のグチが多いときなんか、
「そんなに会社が嫌なら起業したら?」
なんて軽く言ったりすると、
「いや、リスクが高いだろ!」
という返事がくるわけです。
でも、別に彼らは厳密に計算して言っているわけじゃない。直感的にそう思い込んでいるだけです。
とはいえ、そこで「会社に残るときと比べて、どのへんが何%高いの?」なんて質問を返したら、間違いなく友情は終わってしまいます。
それは相手に対して”バカ”と言っているのと一緒なんで、「まぁリスクが高い場合もあるよね!」みたいな大人の対応をして話をテキトーに流すわけですが(笑)。
つまり何が言いたいかというと、僕らは普段大した計算なんてせず、直感的にヤバいかどうかで物事を判断しているってことです。
もちろん、数字が全てだとは思いませんよ。だけど、ある程度数字に落とし込んで考えることができなければ、真実を見極めるなんて夢のまた夢なのです。
あるがままに観る
ここまでの話を踏まえると、人間の認知機能がいかにいい加減なものかが理解できたはずです。
ここで重要になってくるのが、全ての情報を『あるがままに観る』という姿勢です。
そこで、
「じゃあ、それはどうやってやるんですか?」
って聞かれると凄く難しい話になるんだけれど・・・。
『あるがままに観る』とは、バイアスの影響をなるべく受けずに観るということだと、僕は理解しています。
もちろん、簡単ではありません。
なぜなら、我々は物事や相手を”自分の主観”というフィルターを通してしか認識することができないからです。
このフィルターを完全に取り除くことは不可能です。しかし、解釈の偏りを引き起こすバイアスをできる限り”自己覚知”する努力はしていかなければいけません。
要するに、「バイアスから、どれだけ自由であるか?」が問われるわけです。

あとは、怖いときだったり、怒っているときだったり、悲しいときだったり、嬉しいときだったり・・・。
とにかく、自分の感情が動いているときは、自分の目が曇っているときだという自覚を持つべきです。
繰り返しになりますが、バイアスというのは誰でも多かれ少なかれ持っているものです。なので、それ自体が問題というより、そのことに気付いているかどうかが重要になってきます。
バイアスが働くと、人は自分の能力を過大評価します。
どうか、常に自分の目と頭を疑うことを忘れないでください。
最後に
本文でも書いた通り、我々には色んな種類のバイアスがかかっています。
でも、それは偶然ではなく”系統的”なものなので、そのメカニズムを理解しておけば何らかの対策を講じることは可能なわけです。
誤解を恐れずいえば、メディアから垂れ流される情報がくだらないのは、その視聴者である我々がくだらないからだとも言えます。

これは、コロナ騒動によってワイドショーやニュースの視聴率が飛躍的に伸びたことからも明らかです。
なぜ、こんなことが起こるのか?
それは、我々が愚かだからです。報道された情報が、事実か否かも判断することができない蒙昧な民だから、彼らはそれを利用しているに過ぎません。
制作側は、国民がいかにアホかということを知っています。さらには、どうやったら煙に巻けるかも熟知しています。
とはいえ、彼らが100%悪いのかといえば、決してそんなことはない。踊らされている我々が、踊らされない努力をしないのも同じくらい悪いわけです。
いずれにせよ、マスメディアというのは、お客さんの質に最適化されるようにできています。お客の質が高ければ良くなるし、逆に低ければ悪くなるのは当然です。
つまり、我々がもっと賢くなり、正しい判断ができるようにならなければ、何も変わらないのです。
現状をより良くするためにも、ぜひ今日お伝えしたことを意識してもらえればと思います。
また、もし何か意見や質問などありましたら、こちらからドシドシと送ってください。
必ず目を通して、今後のコンテンツ作りの参考にさせてもらいますので、そういった意味でも気軽に送っていただけると嬉しいです。
以上、最後まで読んでくれてありがとうございました。