どうも、矢島ヒデです。
本日も前回に引き続き、他では聞けない『コミュニケーション論』について綴っていきます。
今回は第4弾です。
以前の記事を読んでない方は、こちらからお読みいただけます。
で、今回特にお伝えしたいのは、コミュニケーションを語るうえで絶対外せない、
『我-汝』
という重要概念について。
これは、オーストリア出身の哲学者「マルティン・ブーバー」が提唱する最も代表的な考え方の一つです。

ブーバーは、世界は人間のとる2つの態度によって2つとなる、と主張しました。
1つ目が<我-汝>、もう1つが<我-それ>という世界です。
そして彼は、<我-汝>のときにのみ”真のコミュニケーション”は可能になると言っているんですよね。
当記事では、この<我-汝>という思想の正体を明らかにし、より自由に生きていくためのヒントを提案したいと思います。
記事の目次
<我-汝><我-それ>とは、どういう人間関係なのか?

<我-汝>とは?
我=私、汝=あなた。
つまり、何のフィルターもかかってない”あなたそのもの”と”私”が関係を築けている状態のことを<我-汝>と言います。
対して<我-それ>というのは、人をモノとして捉えること。
例えば、相手の一面を見ただけで全て知った気になったり、勝手なイメージを作り上げて話していたり・・・。相手の”あるがまま”を捉えない関係のことを<我-それ>と言います。
<我-それ>とは、平たく言えば『機能主義』のこと。
例えば、
「あの人は○○が得意」
「あの人は✕✕な人」
「あの人は☆☆が出来る」
「あの人は△△が出来ない」
という感じで、人間を機能に還元していくんです。
そして、ブーバーは<我-それ>という存在の仕方が、全ての人間関係の悩みの根本的な原因であると説いているのです。
まずは、この前提を抑えておいて下さい。
ブーバーの説く『存在論』
そして、より重要なのが、<我-汝><我-それ>の「我」を規定しているのが、「汝」と「それ」だということ。
少し話がややこしくなりますが、<我-汝>とは「私」と「あなた」のみの関係ではなく、「他のものと関係している私」と「他のものと関係しているあなた」との関係を指しているんですよね。
つまり、人間は必ず何らかの関係があって初めて存在することができ、「我のみ」でポンっと存在することはできません。

まずは関係ありきで、その関係が要素を規定していくって立場ですよね。
例えば、僕が他者と築く関係が<我-それ>の場合、僕は<我-それ>としての『モノ』として生きていくしかなくなります。
反対に<我-汝>の関係を築くことができれば、僕はその関係の全体としての『僕』として生きていけるのです。
つまり、ブーバーが言いたいのは、<我-それ>の関係を作ったときに、「それ」として見られている相手が可愛そうなのではなくて、自分も同じ風になるよってこと。
なので、もし自分が全体として自由に生きていきたいのであれば、他者と<我-汝>の関係を築かない限り、一生「それ」として生きていくことになってしまいます。
ブーバーが著書のなかで、

と言ったのは、そういう意味なんですよね。
<我-それ>がもたらす危険性
心が病んでいく
<我-それ>の関係を続けていくと、徐々に心が病んでいきます。
なぜ、先進国のほうが精神的な病気にかかる人が多いのか?
その理由の1つに、”<我-汝>の関係が築けていない”ことが挙げられます。
そして、この問題は僕らが産まれた瞬間から始まっています。
だってね、
「いい子であれば、あなたを愛しましょう!」
と、幼い頃から親がメッセージを送ってくるんです。
これは裏を返せば、いい子じゃなければ「愛してくれない」という意味にも受け取れます。”その機能が十全に働くのであれば・・”という前提条件が常に付きまとうのが、<我-それ>という関係なのです。
また、僕の経験から言っても、
「俺が!俺が」
「自分が!自分が!」
となっている人のほうが、何だか生きにくそうに感じます。
どこか疲れているというか、精神が擦り減っているというか・・・。いわゆる生体エネルギーレベルが低いような印象を受けることが多いんですよね。
反対に、利他的なタイプの人のほうがニコニコと楽しそうに生きているように見えます。

失敗を恐れる
また先進国の人の多くは、失敗を極度に怖がる傾向があります。
だから、どんなジャンルでも失敗を恐れない人、ただそれだけで成功する確率はぐっと上がるわけです。

でも多くの人は、3回くらい失敗すると、心が折れてすぐに諦めちゃう・・・。
それは何故か?
みんな<我-それ>の関係のなかで育つからです。
人間を機能に還元するので、失敗するってことは『機能不全』であり、それは全人格の否定なんですよね。
だから、我々は失敗を極端に恐れてしまうのです。
一方、<我-汝>で生きていると失敗が怖くなくなります。
とある天才発明家は、

という名言を残しましたが、それも<我-汝>の関係を築ける人しか持ち合わせていない感覚なんですよね。
確かに失敗したけど、
「だから何なの?」
「そんなの単なる一部分じゃん!」
てな感じ。
機能主義的な関係ばかり作っていると、その機能が全てになってしまうので、1つの失敗は全人格の否定に繋がります。
そのため、何度か失敗すると、二度と立ち直れなくなってしまうのです。
良好な人間関係を築くための極意とは?

相手に何も期待しない
<我-汝>とは、我々が目指すべき理想の状態です。
だから、この概念を知って、

と、突然明日から出来るようなものではありません。
僕らに出来ることと言えば、常に意識することくらいしかないわけです。
なかでも、比較的簡単に取り入れられる意識の持ち方としてお勧めなのが、ポジティブな意味で「相手に何も期待しないこと」。
そもそも論、我々は自分の期待通りのことが起こらないから苦しみます。そして、相手を変えようと思うから疲れてしまうんです。
当然ですが、相手を変えられるのは”その本人だけ”。私が変えてやろうとか、これが正しいんだから分かれよとか、いくら言ってもムダです。
僕らに出来るのは唯一『きっかけ』になることくらいしかありません。
相手が自ら気付けるような、何らかの動機を与えるために何かをしていくことは大事だと思いますよ。
だけど無理やり他人の価値観を変えるという行為は、こちらが相手を支配するというのと根本的には変わりませんので。
それは、明らかに正しい方法ではありません。
誰だって、無理やり価値観を押し付けられたら生理的にイヤじゃないですか。
それは自分の精神を支配されるような気がするからであり、より良い関係を築こうと思ったら一方的にこちらの価値観を押しつけてはダメなんですよ。

人間は、誰かに支配されそうになったら反射的に抵抗するものです。
当然抵抗すれば、自分の殻に閉じこもっちゃうので、よりコミュニケーションが取りづらくなってしまいます。
だから何も期待せず、温かく見守っていくことが大切なんですよね。
小石を投げ続ける
僕のイメージとしては、遠くから相手の殻めがけて小石をコツン、コツンと投げている感じ。
何かに気づいて「おや」っと顔を出す人もいれば、なかには全く気づかない人もいる。人によって反応は違いますが、僕は小石を投げ続けるわけです。
「コツン」
「外の世界は面白いよ」
「コツン」
「外の世界は面白いよ」
・・・と。
その結果、殻の外に出てくるかどうかは本人次第ですが、僕に出来るのは『違和感』を与え続けることだけ。
そして、何らかの違和感を与え続けていれば、誰かは気付いて出てきてくれるんですよ。
それくらいが僕の中では、何となく丁度いいバランスかなぁと思ってます。

絶対的な関心を持つ
で、この期待しないっていうのは、無関心であることとは全く違いますので。
相手に対しては凄い関心があるし、心の中ではちゃんと期待も持っているんですよ。
この感覚は、例えるなら『恋愛』と似ています。
恋愛って、別に向こうが好きになってくれるから、相手を好きになるわけじゃないですよね。
恋の始まりは、相手がどうであるか関係なく、
「あの人って何かいいなぁ」
「また会ってみたいなぁ」
てな感じで、勝手に好きになるじゃないですか。
それがたまたまお互い想い合えば、ある種の恋人になったり、夫婦になったりという形で何らかの進展はあるけれど、最初の段階において相手の状況は関係ありません。
つまり、何も期待していない。ただ好きになっているだけの状態です。
<我-汝>とは、それと似たような感覚です。
例えば、僕の仕事のモチベーションは、相手が結果を出そうが出さまいが変わらないし、それによって態度も変わらない。もちろん、自分の価値判断で何かを押し付けるようなこともしない。
なぜなら、敢えて期待しないようにしているからです。もっと言えば、相手の可能性を信じているからこそ、何も期待しないのです。
これは一般的な感覚ではないので、あまりピンとこないかもしれませんが・・・。
僕はその都度やれることを全力でやって、あとはもう手放している。これは無関心とは全く異なる概念です。
そりゃあ人間ですから、
「えっ?何コイツ・・・」
「ヤバない?」
って思うようなこともあるんだけど^^;
今日お話ししたようなことを意識しておけば、「あ、今オレ『え?』って思っちゃったな」ってな感じですぐに軌道修正をかけることができます。
別に正でもないし負でもない。ポジティブでもなければネガティブでもない。人と接するときは、出来るだけフラットな精神状態を心がけています。
その道を選んでいるのは相手自身なので、周りがとやかく言う問題ではないですからね。

互いの意見をぶつけ合う
前回の記事でも書きましたが、何らかの『他者性』と出会わなければコミュニケーションは起こりません。
だから、空気を読んで何も言わなかったり、相手の言動に対して「いいね!」「いいですね!」と相槌ばかりを打っていたりするのは、本来コミュニケーションとは言わないんですよね。
そうじゃくて、全力でこっちの世界をぶつけていく。そうすると、当然向こうもぶつかってきます。
その結果、共通のものにしていく話し合いのようなものが良いコミュニーケーションのイメージです。
でも、その結果何が起こるのかは期待しない。こちらの土俵に引き込むようなこともしないし、自分の考える結論に誘導するようなこともしない。
ただ、お互いぶつけ合うだけ。
もちろん相手を批判するとか、全然そういう話ではなくて。
「私はこう思う」「あなたはそう思う」「なるほど、なるほど」ってな感じで、気が済むまで話せばいいじゃないですか。
で、その結果に関しては気にしないってことです。
まずは出来る範囲で構いません。
例えば、メチャクチャ嫌いな人と会うときでも、その都度その都度やれる範囲で<我-汝>という概念を忘れないように意識する。
これを意識するだけでも、随分と見え方が変わってくるので。
ぜひ、前回紹介した『価値判断の保留』と併せて<我-汝>についても意識して欲しいなぁと思います。
最後に
今回の4話目で、コミュニケーション論の最終話になります。
僕が一貫して伝えたいのは、そこにある現実をありのままに受け入れようとすることの重要性について。
前回の記事でも詳しく書きましたが、僕らは現実を認識した段階でほとんどの情報を”詐称”しています。
本来、現実には物凄い奥行きと鮮やかさがあるはずなのに、僕らにはその一部しか見えていないわけです。
それくらい世の中ってのは、未知なる可能性に溢れていると思うんですよ。

出来るだけ自分の価値判断は脇に置いといて、あるがままを捉えようと努力してみる。
そういう意識で他人と接することで、見えてくる景色は変わってくるだろうし、その相手の印象も変わってくるだろうし、その関係自体も変わっていくと思います。
そして、これこそが本来あるべきコミュニケーションの姿なのではないでしょうか。
また、ブーバー論の続編についてはこちらの記事で書いています。
ぜひ、併せてお読みいただけると嬉しいです。