個性の作り方 – 『自分らしさ』はどこに存在するのか?

個性の作り方

個性って当たり前じゃん。それが普通だと思うんだ。個性イコール普通だよ。100人いたら100通りの人なんだしさ、個性的じゃないっていったらおかしいよ。

- 甲本ヒロト -
   (ロック歌手)

ヒデ
ヒロトは天才だね。

どうも、ヒデです。

昨今のネット界隈を見てみると、

「個性が大事だ!」

「個性を伸ばすべき!」

と、声高らかに主張している人ほど、本当の個性について履き違えているんじゃないかなぁと感じます。

多くの人は、あまり深く考えずに『その人らしさ』とか『自分っぽさ』とか『周りとの違い』とか・・・。

巷の大人たちは、

「子ども達の個性を伸ばそう!」

とか言っているくせに、ちょっと無責任だと思うんですよね。

そこで、本当の個性とは何で、どう生み出せばいいのか?

今回は、その真相について考察してみました。

本当の個性って何だろう?

本当の個性

個性に対する誤解

大前提として、個性は自分で決めるものではありません。

なぜなら、それは『他人』が決めるものだからです。

例えば、ある人の個性がひたすらに伸びていっても、

「じゃあ、一人ぼっちでずっと個性的でいてください!」

と言われたら、そんなのムリな話じゃないですか。

もし、あなたがその状況を求めているんだったら構いませんが、決してそうではないはず。

ヒデ
当たり前ですが、天才画家ゴッホのようにひたすら個性的であり続け、耳を引きちぎりたいわけじゃないですよね(笑)

恐らく、耳をちぎりたい人はこのブログを読んでいないと思います。僕のクダらない戯言なんて聞かず、勝手に1人で創作活動に打ち込んでいるでしょう。

そう考えると、”個性的であるためには、まずは社会の中で自分を『個性的である』と認識する人を増やさなければいけない”ということが分かります。

当然ですが、単純に好き勝手やっていれば良いという話ではないのです。

冒頭でもお伝えしましたが、個性的かどうかを決めるのは自分ではなく、あくまで周りの人々。つまり、社会との関係性の中でのみ個性は発現します。

しかし多くの人は、自分の『内側』に個性があるという固定観念を持っており、その結果余計なことで悩んでいるように感じます。

個性とは、あくまで他人が自分を「どう見るか?」という話であって、自らアピールするものではありません。

まずは、この前提をしっかりと抑えておきましょう。

 

本当の個性とは?

個性の意味について、辞書では以下のように記されていました。

1.他の人とちがった、その人特有の性質・性格。個人の特性。

2.個体に特有の性質。

個性が”その人特有の性質”だとすれば、究極的には『他人と共有できないもの』だと言えます。

しかし一方で、

「☆☆さんは個性的だなぁ」

「××さんってちょっと浮いているよねぇ」

「○○さんの文章は味があって好きだなぁ」

と、感じる何かも存在します。

何だかよく分からないけど、我々は誰かを見て個性的、あるいは没個性的だと感じることができる。

その何だか分からないけど、周りから個性的であると認識してもらえるような最低限の『土台』が存在するからこそ、個性が個性として認知されるわけです。

つまり逆説的ではありますが、個性が個性として認知されるためには、共通の土台が必要になってきます。

共通の土台があるからこそ、

「あ〜あの人は個性的だなぁ」

「あの人って面白い人だよね」

と、周りが理解することができるからです。

逆に、共通の土台が一切なかったら、お互いに触れ合う場所がないので、「何だかよく分からないもの」「意味不明なもの」「怪しいもの」というカテゴリーに入れられてしまうでしょう。

文章も一緒ですよね。まずは『論理』という土台があり、それを無視してハチャメチャに書いたところで誰にも伝わりませんから。

好き勝手やらしておくということとは”真逆”に位置するわけです。

つまり、個性を発揮するためには、他者と『共通の地平(=世界)』を築くことが不可欠。いかに他者の気持ちや価値観を汲み取っていけるかという力を磨くかが問われます。

そして、これこそが個性を発現させるうえで、最も重要なパーツだと考えています。

ヒデ
ここ日本では、「制約さえ取っ払えば、勝手に個性は形になって現れてくる」という半ば都市伝説的な考え方が蔓延していますが、そんなことは全然ないんですよ。

個性はどうやって育まれるのか?

個性の育て方

個性の育て方

先述した通り、個性を磨くためには、逆説的に『一般性(=共通の土台)』について学んでいく必要があります。

例えば、他人の気持ちを慮ったり、他人の気持ちを受け入れたり、あるいは他人の価値観に共感したり・・・。

その土台があるからこそ、個性が光るし、個性が個性として周りの人々に認識してもらうことができるのです。

逆に、一般性という共通の土台がなければ、相対的に何が個性的なのかが分からなくなってしまいます。

好き勝手やることで、結局はエゴになってしまい、一人ぼっちになってしまう。周りに人がいても、誰からも理解されず、自分ひとりが「俺は個性的なんだ!」と言い張っている悲しい状態に陥ってしまう。

自分としては満足かもしれないけど、それでは誰にも伝わりません。

つまり、自由になればなるほど『個性が消えていく』という逆説があるわけです。

それがイヤなら、ちゃんと周りに伝わるよう多少は寄せていくような努力ができないとダメなんですよね。

ヒデ
例えば、ゴッホのようなガチガチの芸術家であれば、ここを譲らないのかもしれないけれど、じゃあ「一人ぼっちで耳引きちぎりたいんですか?」ってな話です。

 

北欧と日本教育の違いを考える

ここまで個性の本質についてツラツラと書いてきましたが、こんな当たり前のことを日本ではほとんど議論されていません。

とにかく、

「制約を取っ払えばいいんだ!」

くらいのレベルで止まっているんですよね。

まぁ、日本ではそもそも個性を伸ばすという伝統がないからしょうがないんだけど、数年前に話題になった北欧式の教育では子どもたちの個性を伸ばすカリキュラムが着々と行われています。

例えば、フィンランドの初等教育では、自分と他人の価値観の比較ばっかりやっているんです。

何か一つのテーマに対して、自分の意見を発表することが目的ではありません。

そうではなく、自分の主張をしたあとに、

「○○君はこう言っているけど、☆☆ちゃんはどう思う?」

「自分とどこが違うと思う?」

「なんで違ったと思う?」

みたいな感じで。

子どもたちに肌感覚で、自分と他人は価値観が全く違うということを理解させ、もしも共通の地平が存在しなければ、お互いに分かり合うなんてことは幻想なんだってことを分からせていくわけです。

その結果として、相手のことを考えたうえでモノを発言したり、モノを聞いたり、モノを考えたりするような建設的な人々が育っていくのです。

ヒデ
この教育方法が完全に日本にマッチするかは分かりませんが、まずは部分的に取り入れていくことは必要なんじゃないかなぁと思ってます。

 

日本教育の問題点

実際、過去の日本でも北欧のような試みは行われていました。

その一部が、すぐに大批判のうちになくなった『ゆとり教育』です。

ゆとり教育とは、今までの詰め込み式の学習に対するアンチテーゼで、

「個性をもっと尊重しよう!」

「子どもの個性をもっと伸ばそう!」

という目的で始まり、結果的には悲惨なことになったわけですが。

ゆとり教育なんて言葉は、完全に蔑称になってしまいましたからね(笑)。

会社で上司から「これだからゆとり世代は!」みたいなことを言われて、別に彼らだって「好きでゆとりじゃねーんだよ!」「社会がそうだったんだからしょうがねーだろ!」てな話で、本当に可愛そうだなぁって思うんですけど。

でも意外にも、ゆとり教育は実験段階ではわりと上手くいってたんですよ。

次世代の教育を実験するモデル校って全国にいくつかあって、構想段階では凄く面白い試みでした。

例えば、日本に住む外国人を連れてきて、その国の文化について話してもらう時間。あるいは、外で植物を見つけてきて図鑑で調べる時間等など・・・。

先生が企画を用意して、生徒が自主的に活動する。つまり、その企画を実現するリソースがモデル校にはあったわけです。

その後、教育委員会でも「これは面白い教育だ!」となり、一斉に全国の公立学校に広まったことが悲劇の始まり。

全国の学校に企画力のある先生がいなくて、結局ただの自習時間になっただけ。それでは、他者との共通の土台なんて育まれるはずがありません。

そして、最終的には学級崩壊と学力低下を招き、強烈なバッシングのなか消えていったのです。

ヒデ
好き勝手にやらせておけば個性が伸びるなんて、単なる幻想です。自習にしちゃう先生も先生ですけどね^^;

個性が発揮する条件とは?

個性の発揮

個性を発揮するためには、何かしら『型(=共通の土台)』のようなものが絶対に必要です。

そこで違和感を感じ、それを修正していく過程でのみ、個性が発現する可能性があるのです。

例えば、スポーツなら道具の使い方やルール、文章なら言葉やロジック、ギターならコードのようなものがそれに相当します。

当然ですが、野球のルールも知らず、道具の使い方も分からない人をいきなり試合には出さないですよね。

監督から、

「よし、楽しんでこい!」

と言われても、そんなのムリに決まっているじゃないですか。

バッターボックスに立って、突然150キロのボールを投げられたところで、ただただ怖いだけですよ。

つまり、何事にも必ず『型』のようなものがあり、それをふっ飛ばしていきなり個性なんて発揮されるわけがないのです。

それを日本では『守破離』という言い方をします。

「守」は、師や流派の教え、型、技を忠実に守り、確実に身につける段階。

「破」は、他の師や流派の教えについても考え、良いものを取り入れ、心技を発展させる段階。

「離」は、一つの流派から離れ、独自の新しいものを生み出し確立させる段階。

こうした一連の流れを踏まえ、まずは『守(=型)』の段階を丁寧にやることが先決です。

ただし、硬直化してはダメ。ゆとりを持って、柔軟性を持って、型をしっかりと理解し、自分の価値観との相対化を行なっていく。

そして、そこで何らかの違和感を感じたら、丁寧に修正していく。

その繰り返しです。

だから、個性を表現しようとわざと奇抜なことをしたり、奇をてらって人と違う行動を取ったり、流行のファッションを追いかけてみたりといった行為とは真逆に位置するわけです。

確かに目立つかもしれませんが、それは若いうちだけです。大人でそれはちょっと痛いと思います。

個性とは、あくまで他人が自分を「どう見るのか?」という話であって、自らひけらかすようなものではないのです。

ヒデ
個性なんて、何かに熱中していれば勝手に出てくるものなんじゃないかなぁ。

最後に

こちらの記事でも書きましたが、人間は生まれた瞬間からユニークなので、それをフルに発揮できれば、

「私の個性って何だろう?」

なんてクダらない議論をしなくても、必然的にユニークな存在であるはずです。

もし、

「私の個性って何だろう?」

と疑問に思うなら、それは何かに熱中したことがないからかもしれません。

対象は何でも構いません。

仕事に熱中するも良し、勉強に熱中するも良し、スポーツに熱中するも良し、読書に熱中するも良し、恋愛に熱中するも良し、何でも良し。

とにかく夢中になることで、自分の本質が垣間見えてきます。

その中で、自分は何をやりたくて何をやりたくないのか。どんなことが好きでどんなことが嫌いなのか。あるいは、何に向いていて何に向いていないのか。

自分の特質が少しずつ見えてくるのです。

まぁ、夢中になり過ぎて一度や二度倒れたり意識を失ったりするくらい問題ないとは思いますが、自分の体調や年齢も考慮しながら、是非そういう何かに夢中になる体験をしてみてください。

以上、最後まで読んでくれてありがとうございました。

個性の作り方

ABOUTこの記事をかいた人

矢島秀人(ヒデ)

現代社会のあり方に疑問を感じて、最強のフリーターを志す。独自の手法「ブッダ∞アフィリエイト」を実践し、2011年以降”ほったらかし”で月収7ケタ超え。現在は海の町で暮らしながら、主にネットビジネス・企業コンサル・FX投資などを行い、個人ビジネスの究極形を追求している。何モノにも媚びず、己の腕一本で食っていける知識をシェアしよう。