職業としてのコンサルタント

コンサルタントとは何か

こんにちは、矢島秀人です。

あえて今回は「”職業として”のコンサルタント」という風なタイトルを付けましたが、僕から言わせればコンサルティングとは日常の風景です。

(ここでは便宜上コンサルタントと書きますが、広い意味での営業や士業、講師業、カウンセラーなど、他者に何かをアドバイスする職業は全て含まれますので、そのつもりで読み進めてください。)

要は、僕みたいにコンサルと呼ばれるような仕事を生業としている人以外も、当然そのスキルは要求されるだろうというのが僕の立場で、コンサル的な思考が身につけば身につくほど毎日が楽しくなって生活の質は向上するだろう、と。

だからこそ、万人がコンサルティングのスキルを身につけ、コンサルタントとしての自覚を持つべきであるという風に思うわけです。

コンサルティングとは

コンサルティングとは

問答

まずは、コンサルティングとは何ぞやという話からします。

それは、僕の中では問答。広い意味で「問い」と「答え」というものがコンサルティングの定義です。

冒頭でも「コンサルティングとは日常である」という風なことを書きましが、例えば「今日の夕飯何食おう?」「ラーメンにしよう!」というのも問答が行われていることに変わりなく、そういう意味では誰もがクライアント(質問者)になり得るし、誰もがコンサルタント(回答者)になり得ます。

なので、仕事としてはコンサルタントじゃないという場合であっても、そのスキルが身につけば身につくほど、その精度が上がれば上がるほど日常が楽しくなっていくわけです。

そして大事なのは、あくまでも問答の域を出ないということ。

問答とは「問い」と「答え」があるだけです。これ以上でも、これ以下でもありません。

しかし、現場経験がある方ならお分かりかと思いますが、実際はクライアントに結果を出させようとするあまり、色んなことを教えて、相手に成果や方向性を全て与えてしまうようなアドバイスをすることもやっぱりあるわけで。

だけど、それは越権であるということを肝に銘じるべきです。

実際に可能かどうかはまた別の話としてあるのですが、基本的にコンサルタントがやっていいのは相手が気づくことの手助けだけ。

理由は追々話していきますが、いかなる時もそのキッカケを超えてはいけないということです。

哲学的は問い

哲学的な、美しい問いの立て方

2021年4月29日

 

コンサルタント=先生

コンサルティングは問答、ではコンサルタントとは何か。

一言でいえば、先生だと思います。

リーダーという風に言い換えてもいいし、あるいは人によってはメンターであるとか、コーチであるとか色んな言い方がありますが、僕が一番しっくりくるのは先生、もしくはリーダーという言葉です。

で、先生とは教師、教師とは教える師匠のことなので、一体何を教えるのかということが問題になってきます。

あれもこれも何でも教えていくのが正しいのか。それとも何か違うことを教えるのか。

これは僕が色んなところで再三言ってますが、すぐに答えを教える人間は教師ではありえない。

何かを質問されて、答えを教える。それがコンサルだと思っている方は多いでしょうが、それは本当に相手のためになっているのか考えて欲しい。

例えば、学校において自力で問題を解かせることなく、答えを教えまくることは本当に生徒のためになっていると言えるのか?

答えは「ノー」だと思います。

また、そもそも正解があらかじめ用意されている学校の問題とは異なり、実際のコンサルティングの現場で現れる問題には唯一の答えというものが存在しません。

にも関わらず、あたかも唯一の「答え」が存在しているかのようなふりをしてその答え(に見える何か)を教えることは、麻薬を与えることと似ています。

なぜなら、「この人は何でも知っている、困ったら何でも教えてくれる」という依存心をクライアントの心に植え付け、相手はバカになるからです。

これは、一種の愚民化政策ともいえます。

もちろん、クライアントをバカにして依存させ、

「金だけ半永久的に搾り取りたい」

「自分がいないと何もできない人間にしたい」

という邪な思いがあるのでしたら、方法論的にはそれも構いません。

ただし、あなたが健全な心の持ち主であれば、この状況が正しいものではないことは一目瞭然でしょう。

先に説明した通り、いいコンサルタントというのはあくまでも「きっかけ」を超えてはいけないし、そういう意味でいい先生とは「守護霊」に近いイメージがあります。

普段はその存在を感じさせることなく、クライアントが本当に困ったときににょろっと出てきて、何かぱらっとヒントになるようなことを言って、相手が気づくチャンスを与える。

「はじめてのおつかい」じゃないですけど、後ろからこっそりと気づかれないように付いていって、もうどうしようもなくなった時に助け舟を出すということが必要な場面もあるわけです。

そして、クライアントの苦しみを緩和する、手伝う、ガイドする、リードするというような役割をコンサルタントは担うわけです。

ヒデ
それ以上は越権だし、原理的にも不可能です。

 

教育と洗脳の違い

よく昔から、「教育と洗脳は何が違うんですか?」という風に聞かれることがあります。

本来これらは全く異なるものです。

僕は、教育と洗脳の違いについて以下のように定義しています。

教育…相手の可能性を拡げること
洗脳…相手の可能性を奪うこと

洗脳とは、相手の可能性の全てを奪うことであり、こちらの持っている正解を押し付けることです。

一方、教育は相手の可能性を拡げることであり、相手のなりたいものの実現を手助けすることです。

だから、表面上やっていることは似ているかもしれないけれど、そのベクトルの向きは全く異なります。

もう少し突っ込めば、相手の可能性を信じることができなかったら、どんどん洗脳に近づいていくということです。

例えば、

「お前にはできない」

「あなたの能力では無理だ」

このようなことを思えば思うほど、思いながらこっちが何かを指導すればするほど教育というものは洗脳色を帯びてきます。

さらに言うと、今持っている自分のスキルや能力、経験などに固執している人というのも可能性を信じていない。

裏を返せば、自分の可能性を潰して現実に縛られている人なので、自ずとやることは洗脳に近づいてきます。

要は、地平が動かず、自分の持っている答えだけを押し付けるタイプになっていくのです。

ここまでの話を踏まえると、洗脳というのは別にやろうと思ってしているわけじゃないことが分かってきます。

「よーし、こいつ洗脳してやろう」なんて思いながらやっている人は、たぶんそこまで多くはないはずです。

純粋に相手を助けたいという想いから、良かれと思って解決策を与えてしまい、結果的に洗脳になってしまう。

それは、やはり避けなければいけないと思うのです。

 

誘導はしない

ヒデ
僕の場合、クライアントを誘導するようなことも極力しません。

例えば、「ここを誘導しなかったら、この人は死んでしまう」というくらいののっぴきならない事態を認識した場合、それを回避させる必要はあるかもしれないけれど、でも最後まで出来る限り「誘導はしない」ということは心に留めておいたほうがいいと思う。

要するに、人間を知れば知るほど「誘導する」というのは凄く簡単なことだと気付いてくるわけです。

だから、やろうと思えばこっちが思ったようなことを相手はやってくれるだろうし、こっちが正しいと思うことを正しいと思ってくれるわけ。

これは凄く簡単な道なのよ、実は。

だけど、そこにずーっと逃げていると最終的にお互いが絶対に解決できない大きな問題にぶち当たるの。

そういうところの責任を負えないわけだから、それはやってはいけないと思う。

確かに、目の前の問題さえ解決すりゃいいんだという大手のコンサルティングファームの理念はあるかもしれないけれど、僕はそうは思わないから。

競争至上主義、成功至上主義、経済合理主義・・・突きつめていくと、人間の感受性は失われます。

成長すればいい、勝てばいい、儲かればいい。どんどん「内容は問わない」となる。

だいたい今の消費者は知性を奪われてしまっていますから、お客さんを騙してモノを売ろうと思えばモノはいくらでも売れるんです。

だけど、自分の会社だけが儲かればいいという発想はナンセンスだし、クライアントの利益が上がるだけでもまだ足りなくて、それは本当に価値ある提案じゃないと提案しない。

このような姿勢を貫くことは、目先の利益を追いかけるよりずっと大事なことです。

コンサルタントに求められる力

コンサルタントの役割

フォーカス

よいコンサルタントとは、クライアントに「結果」を出させるコンサルタントです。

では、結果とは何でしょうか?

金銭的な儲けや悩みの解消ですか?

もちろんあるでしょうが、それは「結果」のごくごく小さな部分でしかないということを理解してください。

なぜなら、「結果」とは決して金銭的に儲けさせるとかそういった単一の尺度で測るべきものではなく、総合的なクライアントの「変化」として測るべきものだからです。

言い換えれば、クライアントが望む「変化」を与えることのできるコンサルタントが「よい」コンサルタントだということです。

では、よいコンサルタントになるためには、一体何にフォーカスすればいいのか?

当然、それは「人間」です。

その結果を生み出しているのは、問題でもなければ、数字でもなければ、解決法でもなければ、人間そのものです。

これは、法人相手のときも変わりません。法人といえど、法律上与えられた人格に過ぎず、実際に問題を引き起こしているのは紛れもない人間だからです。

そして、もう少し具体的に言うと、クライアントが求めている答えというのはすでに相手の中に存在します。

彼らは、右手に問題、左手に答えを持ってやってきます。しかし問題ばかりに意識が向いているため、自分の手に答えがあることに気づけないのです。

コンサルタントの仕事は、それを見つけて相手が気づくような形で再提示してやることであり、相手の中のもので相手が解決するよう促すことです。

例えるなら、入試の現代文に似ています。よく答えは本文の中にあるって言われますけど、相手の中に答えはあるんですよ。

そうじゃなければ、それが答えになり得るはずがない。

だけど、ただ喋っているくらいだから本人はその答えに気づけない。だから、よく話を聞き、なるほどなと理解して、相手がそれが答えだと気づく形で投げ返してやる。

そうやって、相手は「あ、なるほど」「こうすれば上手くいくかもしれない」と何かしらのヒントを得て帰っていくというのが実際の現場で行われていることです。

 

欠かせないもの

コンサルタントが相手にしているのは人間である以上、丁寧さが求められます。

ここでいう丁寧とは「へりくだる」という意味ではなく、緻密で飛躍がないということです。

例えば、相手から悩みを相談されたときに、「あーそれは○○だよ!」とすぐに答えたとしても、実は自分が思ったのと全然違う悩みだったかもしれない。

それは、自分の持っている知識に相手を当てはめたに過ぎません。

相手をそのまま捉えるのではなく、自らの知識を最優先させて「この悩みは前に聞いたことがある」「こうやったら解決した」「これで上手くいくはずだ」という経験にばこっと当てはめているのです。

このように相手との循環を大して起こさず、問題だけにフォーカスして「あ、この答えはAだ」と言ってポーンっと投げてしまうのは明らかに飛躍です。

それは丁寧さが全くない。いかに細かく問題を分析してても、やはり丁寧さに欠けています。

なぜなら、クライアントを置き去りにしているからです。

コンサルタントには、相手は相手、俺は俺という風な考えに終始していないで、相手のことを本当に自分のことのように時として考えることができるかが求められます。

そして、循環を起こす中で、相手がストレスを感じないレベルまで一歩一歩の刻みを小さくしていける力、相手の歩幅に合わせて一歩一歩進んであげられる力というのが、ここで言う丁寧さの意味です。

 

問題が解決しない理由

目の前の問題ばかりにフォーカスしてしまうと、本質的な解決にならないことが多いです。

なぜ、大手のコンサルティングファームに依頼しても業績が変わらないのか?

彼らは数字とデータを並べ立てて「××ですよ、●●ですよ」と現状を分析はするけれど、それは本当の現状ではないからです。

色んなものを取りこぼした結果の綺麗なデータであって、現実の一部に過ぎないから実際の問題解決にはほとんどの場合なりません。

問題の根本が人間にあるにも関わらず、表面に出てきた問題だけを潰そうとするわけだから、それはまさに風邪薬のようなもの。一時的に症状が緩和しても、すぐにまたぶり返すだけなので、本質的な解決にはならないのです。

例えば、コンサルタントはA・B・Cというリソース(知恵や技術や資金など)を持っていたとする。しかし、クライアントはB・C・Dというリソースしか持っていない。

そのときに「Aが答えだ」と一方的に投げてしまったら、相手は行動不能になってしまいます。

自分にとってはこの問題を解決するのはAかもしれないけれど、相手にとってはAなんてものは地平にないから、そこで話が終わっちゃうんですよ。

また、そのような関係が続くと現場も荒んできます。

この「荒む」という概念もちょっと難しいんですが、将棋の世界ではよく使われる言葉で、勝ちとか相手を打ち負かしてやろうとか気持ちが先行すると手が荒んでくるという風な使われ方をします。

要は、ざらついた感じになってくるということです。

クライアントの問題は解決したはずなのに、なぜか釈然としない、後味がよくない、すっきりしないようなざらっとしたものが残る現場になってくる。

それは、やはり相手を無視しているからでしょう。人を無視すると、した方もされた方も辛いし、どこかわだかまりが残るものです。

もちろん、相手を全く無視して問題だけにフォーカスするというのは、いわゆる近代的な合理主義的な発想としては間違いではないと思います。

相手は相手、こっちはこっちで完全に主客を分離して、なるべく客観的に分析的に理解しようという試みなので科学的な手法ではあるでしょう。

だけど、あえて分離することで、問題の本質を見失うというデメリットに関しても同時に認識しておく必要があるのです。

可能性を信じるということ

可能性を信じる

可能性とは何か

可能性とは、無数に開かれた未来のことです。

当然、その中のいくつかを閉じてしまうか、あるいは開いたままにしておくかはその人次第だと言えます。

逆に、不可能性とは、アリストテレス以来の論理学の中でよく言われることですが、同時に肯定と否定が成り立つような命題のことを指します。

例えば、寝ながら起きている私とか、文字を書きながら書かない私とか、右に左折をする車とか・・・。

言葉の繋がり上、相反するものが同時に成り立つようなものが非論理であり、それは純粋に不可能世界だと言えます。

 

現実と非現実

この前提を踏まえると、可能性を信じるということは、我々が思っている以上に難しいことだと分かってきます。

なぜなら、可能世界には非現実的な事柄が大量に含まれるからです。

特に、現場でコンサルをやっている人は、当然他の人よりも知識がいっぱいあるし、過去の経験やデータも豊富に持っているぶん、出来なさそうなことが山のように見受けられます。

だから、どうしても「それは無理だよ」と思うことが多くなってしまい、自ら相手の可能世界を閉じてしまう傾向にあるわけです。

では、現実と非現実を決めるのは一体誰か?

当然ですが、それを判断した「自分」ですよね。

例えば、新しいプロジェクトの計画をクライアントが持ってきて、自信満々で絶対上手くいくと信じている。だけど、こちら側からすれば絶対上手くいかない気がする。

実際の現場では、このようなケースが往々にしてあります。相手は現実だと判断し、こちらは非現実だと判断しているわけです。

この場合、どちらが正しいのかは実際にやってみないと分かりません。

大体の場合、経験値や場数の差から、こちらの予想が当たることが多いだけで、純粋な確率論でいったらそれは誰にもわからない。

もちろん、1万回失敗するところを100回、10回、1回に抑えるのがコンサルの仕事であることに異論はないし、そのためにクライアントは報酬を支払っていることも重々承知しています。

しかし二者択一を迫る以上、確率論でいったら五分五分。

どちらのほうが成功の可能性が高いかは、色んなデータや経験、要素を含めれば偏りは出てくるんでしょうけど、純粋な世界における確率論では当たるも八卦、当たらぬも八卦の世界に片足を突っ込んでるわけです。

つまり何が言いたいかというと、自分が知っている世界はどれほどのもんかってことです。

 

あらゆる可能性を信じる力

先述した通り、クライアントが持ってきた企画に対して、コンサルが「それは不可能だよ」と判断することは勝手です。

だけど、それを万能の真理かのように押し付けることは本当に正しいのか。

ある時ふと、クライアントも増えてきて、それがきちんと仕事になって「順調に回りだしたな」という実感が少しずつ湧いてきたくらいのタイミングで、自分のこのアドバイスや発言が相手の人生の一部ないしは多くの部分に影響しているということが怖くなってくる時があるんです。

お前はそんなにモノを知っているのか、と。

そこで、私は万能ではない。自分なんて「ノミの足に生えている毛一本にも満たないくらい些細なことしか知らないんだ」ということが強く自覚されたとき、そんなちっぽけな自分が「できるはずがない」と判断したことが本当に真実と言えるのか。

自分が下した決断に対して、「これで本当にいいんだろうか」という風に怖くなるときがある。

そして、最終的には当たり障りのない平凡なことしか言えなくなったりするわけです。

この重圧を跳ね除けるためには、自分とクライアントの可能性を信じる強さが求められます。

これは非常に難しく、特にコンサルタントとして仕事を始めて最初の2~3年はこんなもんいらないはずです。

恐らく、あまり必要性を感じることがないと思います。

それよりも、例えばクライアントが言っていることを理解する力、クライアントが言いたいけど言葉にできないことを汲み取る力、クライアントが抱えている問題の答えをすぐに思いつく力、本質を見抜く力、知識の集合体を知恵に昇華していく力、等など・・・。

最初はこのような部分にフォーカスされていくと思いますが、3年過ぎて、4年、5年、6年という風にやっていくと、相手の可能性を信じる力みたいなものが本当に欲しくなってくるんですよ。

コンサルティングというもの

コンサルティングというもの

コンサルの役割

もちろん、クライアントに客観的なデータとして伝えることは大切です。

例えば、「過去に似たようなプロジェクトを起こした会社のデータがあって結果は✕✕✕でした」という情報を伝えることは1つ大事かもしれないけれど、だから辞めなさいというのは越権ですよね。

そうではなく、「それでもあたながやりたいならどうぞ」という姿勢がやはりコンサルとしては正しいわけです。

そして、「こんだけ失敗しているんだから、どうせ失敗するよ」「それでもやりたければやれば良いじゃん」みたいな投げやりではなく、

「僕の小さな経験では上手くいった事例を見たことがないけれど、君が本気で上手くいくと思うんだったら上手くいくと思うからやってごらん」

という風に心の底から思えるかどうか。

最終的にはやはり、自分と相手の可能性を信じる強さが求められてくるわけです。

 

コンサルの葛藤

最初に書きましたが、仕事を始めて2〜3年くらいはこういうまどろっこしいことはあまり考えません。

それこそ、

「それは上手くいかない」

「こっちのほうが上手くいく」

「やってごらん!」

と言えばある程度の結果は出るから、「ほーら、俺の言った通りだろ」でいいんです。

それでコンサルが上手くいっているように思う。

だけど、何年かやっていくと、それは相手の可能性の世界を勝手に潰していることになるんじゃないか、という疑問が強く自分の頭と心を支配します。

俺がやっていることは自分の分身を作っているだけじゃないか、と。

それは、親が我が子に自分の夢を無意識に託してしまうようなものです。

自分の狭い世界を押し付けて、自分のコピー品を作ろうとしているだけじゃないかという不安がふつふつと湧いてくるのです。

そのとき、相手の可能性の世界というものを「どれだけ信じていられるか」という部分が求められてきます。

そして、これは想像に難くないと思いますが、非常に難しい。

なぜなら、この世界で本当に不可能なことは、厳密にいえば同時に肯定と否定が成り立つ非論理のもの以外ないからです。

そこは指摘したほうが良いと思いますが、実際には可能世界にある非現実だと思うものを不可能だと決めつけているケースも多いんですよね。

だけど、それは完全に越権です。

それを現実と判断するか、非現実と判断するかは各自の勝手であり、こっちの判断を誰かしらに押し付けることは正しくありません。

世界がそういう人ばかりで溢れていたら、人間が空を飛ぶことはなかっただろうし、ましてや月に行くことなんてなかったと思います。

それこそ「マネーの虎」に出てた社長さんたちが、その後次々と倒産、破産、借金を負うまでに転落した姿をみれば、いかにビジネスの現場において直感や経験則みたいなものが役に立たないのかが分かります。

例えば、一度上手くいった方法をバカの一つ覚えみたいにずーっと繰り返しやっていく。それは表面的に上手くいっているうちは正解かもしれません。

しかし、それが上手く行かなくなると、途端に間違いになってしまうのがビジネスの世界です。

再三お伝えしている通り、ビジネスの現場で現れる問題には唯一の答えなど存在しないのです。

 

コンサルの理想

もし教師が、きっかけという仕方以外で生徒に自身と自身の学問を与えようとするならば、それは奪うということに他ならず、もはや友ですらなくなる。自ら学ぶ機会を奪い、押し付けているだけである。そのような教師は不要であり、ソクラテスはきっかけを超えない勇気を持っていた。

- キルケゴール -
       (哲学者)

これはキルケゴールの言葉ですが、この意味が今なら凄くわかります。

自分の経験、自分の哲学、自分の信念、自分の理念、自分の正解。何でも構いませんが、それを与えてしまうならば、相手から可能性を奪っているということに他ならないんだ、と。

「自ら学ぶ機会を奪い」とは、結果として相手の未来を奪っているということです。

そして、そのような教師は不要であるばかりか、もはや友ですらないと言っているわけです。

ちなみに、ソクラテスと言えば産婆術が有名ですが、彼は問い続けることしかしませんでした。

【産婆術】
文字通り読めば、赤ちゃんの出産を助ける助産師(産婆)の技術。ソクラテスは、無知な者同士が語り合う中で新しい知を産みだす技術のことを産婆術と呼び、自分はそれが得意だと自負していた。

要するに、問い続けて、問い続けて、問い続けて、相手が勝手に矛盾に気づいて閃くという非常に神がかった術なわけですが(笑)

ソクラテスは、

ソクラテス
お前は○○という理由でおかしいぜ!

とは決して言いません。

あくまでも、「何で?どうして?」「それはどういうこと?」という感じで相手の話を面白がって聞きながら、さらに「こんな話があるんだけど、それと組み合わせたらどうなる?」とか言って発言を促す。

相手の話をただ受け身で聞くのではなく、新しい情報を加えながら質問を重ね、次から次へと話題を振りながら話を広げていきます。

ソクラテスの度重なる質問で、相手はどんどん思考を重ねる。その結果、それまで自分ひとりでは思ってもみなかったような斬新なアイデア、深い思考が引き出される。

対話によって相手の矛盾や無知を自覚させつつ、より高次の認識、真理へと導いていくわけです。

そして、ソクラテスは「きっかけを超えない勇気」を持っていました。

なまじ知識や経験があると、ある程度の問いに対しては自分なりの答えはすぐに出てきます。

だけど、それをそのまま与えるっていうことが相手の可能性を奪うってことを最近凄く実感しています。

コンサルという「人間」

未来予測

パートナーは自信

今までの話を全部踏まえていくと、コンサルタントとして独立してやっていくために必要なのは、あらゆる意味での「自信」です。

自信とは、文字通り自らを信じる力のこと。

本当の意味で自信が持てなかったら、自分の可能性も、クライアントの可能性も全て信じることができません。

逆に、自分に自信があれば、相手の可能性を信じている自分というのも信じられるわけです。

このような法則があるので、クライアントのことを疑ったり、たぶん無理だろうなと思ったり、そんな風に相手を信じられなくなったときは自分の中のどこかも信じられていないんだという風にちらっとでも思うと、後々の成長にも繋がるんじゃないかと。

ヒデ
あとは当たり前ですけど、コンサルタントとして独立して一人でやっていくこと自体、ちょっと怖いですよね。

いくら自分に自信があると言っても、本当にこれで一生食っていけるくらい上手くいくのかなとか、本当に誰かを助けることなんてできるのかなとか、何かしらの不安は出てきます。

また、自分のこのアドバイスや発言が相手の人生の一部ないしは多くの部分に影響しているということがちょっと怖くなってくる時もある。

本当にこれでいいのだろうか、と。

そういう不安を乗り越える強さみたいなものも求められます。

 

善く生きるとは

最終的に、先生であるコンサルは何を教えるべきか?

これは僕の持論ですが、「人間としてのあるべき姿」を伝えられればこれ幸いと。

で、それに共感するかしないかは相手次第です。

要は、自分だけが唯一のあるべき姿として正しいんだと思わない強さ。他にもあるべき姿の可能性があるんだということをどれだけ信じていけるか。

そうすることで、初めて自分というものも信じることができるようになってくるし、自分を信じることができるから外の世界というものも信じることができるようになってくる。

さらっと書いてますが、これは非常に高い目標です。

ただ、これを意識してコンサルティングという活動の中に入っていくのと、これを意識せずただ答えを教えりゃいいやと思ってやっているのとでは、数年後雲泥の差になっているはずなんで。

当たり前ですが、「人間とはこうあるべきだ!」と言ったらいけませんよ。それは押し付けなので。

ソクラテス的に言えば、自分の生き様で示すしかないわけです。

ヒデ
ソクラテス的に言えばというか、彼自身は一冊も本を書かなかったので実際は言ってないんですけどね(笑)

ただ、ソクラテスから多大なる影響を受けた友人や弟子たちが多くの記録を残してくれたおかげで、死後2400年以上経った今もその生き様と哲学は脈々と受け継がれています。

有名なのは弟子のプラトンで、死刑になったソクラテスの見事な生き方が、圧倒的な感銘を与えて彼の人生を変えたわけです。

ソクラテスはブッダと同じで、やはり自分で覚ったのだと思います。

一体ソクラテスは何を信じていたんだろうか、何に確信があったんだろうか、なぜ死を平然と受け入れることができたのだろうか。

そして、「そういう心境を彼に恵んだものは何なのか?」ということが、プラトンが生涯を通して究明したかったことなのです。

 

沈黙は金、雄弁は銀

語り得ないことについては、沈黙するほかない。

- ウィトゲンシュタイン -
          (哲学者)

この非常に有名なテーゼは、ウィトゲンシュタインが「論理哲学論考」という本の中で提示したものです。

彼は、語り得ぬものについては沈黙せねばらないと言いました。

つまり、黙ってやれ。その理由をあーだこーだ言ったりせず、ただやれと。

少し前に「旨さを語ると野暮になる」と言いながらベテラン俳優が酒を飲むコマーシャルがありましたが、まさにそういうこと。

男は黙ってサッポロビールなわけです。

ウィトゲンシュタイン
喋ると野暮ったくなる。愛だの平和だの語り得ぬものについて我々ができることは実践以外なく、その生きた足跡だけがそれを雄弁に語るのだ。

というのが、ウィトゲンシュタインやソクラテスの哲学から僕がヒシヒシと感じる生き方の指針です。

彼らは紛れもなく、人生として哲学を表現した人でした。

最後は生き方というテーマで大上段に構えましたが、この辺もちょっと考えてみると、ビジネスとかやるうえでも多少やり方は変わってくるんじゃないかと思います。

最後に

その昔、ブッダが弟子に「死後の世界はありますか?」と尋ねられたとき、沈黙で答えたそう。

これは沈黙という行為が、本当の問いを喚起させるきっかけになっているわけです。

あると言っても間違いで、ないと言っても本当の問いは出てこない。それを言ってしまったら、相手が本当の問いに気づかないから黙っておく。

つまり、沈黙は有力な言語になり得るということです。

とかく現代は、あらゆる質問に即答することが善だと思われがちです。

しかし、そこにばかり意識が奪われてしまうと、「なるべく早く反射すればいいんだ」という軽薄な思考パターンに陥ってしまいます。

それは、ただの「知ったかぶり」です。

一時的に上手くいくことはあるかもしれませんが、長期的に成功するのは中々難しいのではないかと思います。

なぜなら、コンサルの仕事の特質上「自分だけ成功する」ということは原理的にあり得ないからです。

クライアントの成功がすなわちこちらの成功であり、こちらが成功(=進化)することでクライアントはますます成功する。

そーゆー関係性にあるのです。

つまり、

「自分のことは死ぬまで全力で磨き続けやがれ」

・・・と。

どんな時代でも変わらず自分を磨き続けるからこそ、どんな時代でも変わらず人様から頼りにされ、支持されていくのだと思います。

自分を磨き、クライアントも喜び、感謝され、しかもちゃっかりお金までもらえちゃう。

文字にして確信しましたが、こんな美味しいお仕事はそうないでしょ(笑)

それでは長くなりましたが、この辺で。

読むのが大変だったと思います。

でも、読んでくれてありがとうございました。

哲学的は問い

哲学的な、美しい問いの立て方

2021年4月29日
コンサルタントとは何か

ABOUTこの記事をかいた人

現代社会のあり方に疑問を感じて、最強のフリーターを志す。東日本大震災を機に自立を決意、2011年起業。現在は海の町で暮らしながら、主に執筆活動・企業コンサル・FXトレードなどを行い、個人ビジネスの究極形を追求している。波乗りと旅と平和が好き。