どうも!
特に意味もなく、
ブルハの『未来は僕らの手の中』を
部屋で1人熱唱していたヒデです。
さて今回は、
「民主主義って何がそんなに良いんですかね?」
ってな話をします。
そもそも論として、我々日本人は民主主義国家の中で生きています。少なくとも、そこに何らかのメリットがあるからこそ、我が国を始めとした先進諸国ではこのシステムを採用しているわけです。
一方、その真逆である”独裁制”は何となく野蛮で悪いものだとされています。
例えば、アラブの国々や北朝鮮、あるいは一昔前のロシアやナチスが政権を取った時のドイツなど、独裁的な国家を積極的に支持するという方は少ないと思います。
他にも、2011年頃に『アラブの春』とニュースで騒がれ、民主主義がさも素晴らしいものかのように扱われていましたが、ここを改めて考えてみようという試みです。
民主主義って何が良いんだろう、と。
何故そんなに称賛されているのだろう、と。

どんなことでも構いませんが、ふと立ち止まって前提を考えるような癖をつける。
そうすることで、初めて物事の本質がちらっと見えてくるのです。
そこで今回は、民主主義の実態を明らかにしたうえで、そこに潜む問題点について考えてみたいと思います。
記事の目次
民主主義の大前提とは?

民主主義の仕組み
そもそも民主主義とは、
「国民は合理的で十分に賢い」
という前提のうえで成り立っています。
つまり、この前提が満たされた時のみ正しく機能し、反対にこの前提が満たされなければあまり好ましい機能の仕方はしないわけです。
さて、ここで一つ質問です。
全ての国民は”合理的で十分に賢い”と言えるのでしょうか?
ちょっと考えてみてください。

当然ですが、みんなが一番良いものを選べるという前提であれば、みんなで話し合って決めたほうが良いに決まってます。
でも、ここで僕が問いたいのは「全ての国民に本当にその力があるのか?」ってことです。
◇
◆
◇
まぁ皆さんも薄々感じていると思いますが、その答えは残念ながら「NO」なんですよね^^;
ダニング=クルーガー効果
で、この事実をご丁寧に色んな実験で実証してくれている学者さんがいます。

その急先鋒になっているのが、コーネル大学のジャスティン・クルーガー氏とデビッド・ダニング氏。この二人がタッグを組んで、ここ15年くらい延々とレポートを出し続けているわけですが・・・。
彼らの主張を簡潔にまとめると、

ってこと。
これは彼らが人に対する恨みつらみから言っているわけじゃなく、数々の実験でこのような結果が導き出されているわけです。
要するに、バカは自分を過大評価するってことです。そして、自分に対する評価もロクに出来ないんだから、他人に対して良い悪いなんて分かるはずがない、と彼らは言っているのです。
さらに、この2人の研究を踏まえて、ドイツ人学者・マトナゲルは数理モデルによって、
「国民というのは選択肢が与えられたときに、一番ダメなものは驚くほど正確に分かる。でも良いものを選ぶことはできない。」
という結論に至っています。
民主主義のメリット&デメリット
ここまでの話をまとめると、

と言えます。
そして、より良いリーダーを選ぶためには、国民が十分に合理的で賢くなければいけない。それが満たされない限り、民主主義によって可能なのは最低のリーダーを排除することだけ。
これが今のところ、学問の世界では定説化された結論なんですよね。
そのため、最近では「民主主義という仕組み自体を見直すべきじゃないか?」という議論も当たり前のように出ています。
一昔前まではタブーでしたが、それが今の現実です。
まずは、この前提をしっかりと抑えておきましょう。
健全な民主主義を維持するために必要なものとは?

民主主義とは●●である
民主主義というのは、単なる政治形態以上の何かである。
- ジョン・デューイ -
(アメリカの哲学者)
学者というのは、何だか分かったような、分からないようなことをボンヤリと言うものです(汗)。
では、ここでデューイが本当に言いたいこととは何なのか?
ちょっと考えてみてください。
この解釈は無限に出来てしまうので、過去のブログ記事を踏まえたうえで考えてみると良いかもしれませんね。

結論から言うと、『コミュニケーション』が起こる政治形態って民主主義だけなんですよ。
それ以外の独裁制はもちろん、社会主義みたいな一枚岩でドーンっと進んでいくような政治形態の場合、当然ながらコミュニケーションは起こり得ません。
しかし民主主義であれば、個々人のバラバラした価値観がぶつかれる。そして、そこには”善悪が入る余地”があるわけです。
何故そこまで言えるのかというと、もしも民主主義でなかったとしたら、そもそも意見の相違がないので、最初から正しいことも間違っていることも決まっています。
つまり、善悪の議論が成り立つのは民主主義以外ではあり得ないのです。
例えば、ゴリゴリのイスラム圏の国に行けば、十代の女の子がレイプされても、そこで死刑にされるのは女の子のほうですからね。
それは、法律によって決まっているんです。
レイプされる奴が悪いという理由で姦淫(かんいん)の罪に問われ、しかもそれは最も重い罪なので、生きたまま麻袋に詰められて投石によって殺されてしまう・・・。
それを先進国の人たちが見て、
「野蛮だ!」
「人権侵害だ!」
と言うんだけれど、これが向こうの文化なんですよ。
そこには善悪の入る余地はありません。レイプしたほうが悪いのか、それともレイプされたほうが悪いのか、みたいな議論がそもそも成り立たない。
一部の権力者によって、全ての善悪は決められているのです。
しかし、民主主義は違いますよね。デューイは、民主主義には単なる政治形態を超えた”善悪の議論を含む余地がある”ということを言いたかったわけです。
日本の原発問題
まさに日本で言えば、原発をどうするのかという問題については、政治形態以上の何かで動いています。
原発は悪、電力会社は悪、政府は悪。それと闘う人たちは善という完全な善悪構造によって世論が動いており、これが可能なのも”民主主義”だからです。

だからデューイは、それを鋭く指摘していて、学者の中には今の日本の現状を見て嘆いている人もたくさんいます。
こんな当たり前のことも分からないのか、と。
2011年、東日本大震災という未曾有の危機のさなかで、僕らは「推進派」と「反対派」の2つに分かれ、争い合い、結局一つになれなかった。みんなで向かうべく、大きな次元で捉えることが出来ず、問題を解決することができなかった。
これは、完全なる”コミュニケーション不全”が原因だと言えます。
非常に残念なことではありますが、民主主義を採用している以上、このようなリスクも当然含まれてしまうのです。
今日からできること
ここで考えて欲しいのは、コミュニケーションが起こることで、何らかの原動力になるってことです。
そして当然、良い面にも悪い面にも振れる可能性があるんだけど、どちらに動くかというのは民主主義の当事者である”我々一人ひとりの賢明さ”の問題になってきます。
これは残念ながら構造ではどうしようもない。
なぜなら、今の僕らが知っている枠組み、つまり民主主義という構造を”何とかする構造”は存在しないからです。
だから民主主義というシステムを採用するならば、その構成員である我々国民が賢明になる以外に道はありません。
先ほどの話ではありませんが、今の日本の状況をみても「原発なんて絶対悪だ!」と主張する人たちと、「いや、まずは電力が足りないんだから動かそうぜ!」と主張する人たちの間で水掛け論になっています。
お互いがお互いをバカだ、チョンだとけなしあっているのです。
じゃあ、何故そんなどうしようもないことになっているのかと言えば、
『お互いが共通のものにしている』
という意識を持たずに批判しあうからです。
それはもはや、本当のコミュニケーションではないんですよ。
それでは何も進展しませんし、まさに平行線とはこのことです。
そういう不毛な様相を呈しているのが今の日本の現状であり、逆を言えば今回話したような当たり前のことを抑えてさえいれば、もう少しマシになるんじゃないのかなぁ、と思う今日この頃でした。
最後に

言い換えれば、「他と比べて民主主義は最もマシな政体である」とも言えます。
先述した通り、コミュニケーションが起こる政治形態というのは民主主義以外にはありません。そして、それをより良いものにするためには、我々一人ひとりの賢明さに掛かっているのです。
そのためにも、まずは自分のことをしっかりと理解し、相手のことも知ろうと努力する。要するに、コミュニケーションの語義である「共通のものにする」という感覚を大切にしたいなぁという風に思います。
争うためじゃなく
花を咲かすために。
それならば今ここで
僕ら何かを始めよう。
未来は僕らの手の中!!!
以上、最後まで読んでくれてありがとうございました。
また、コミュニケーション理論についてはこちらの記事でも詳しく書いています。
ぜひ参考にしてくれたら嬉しいです。