『本当の自分』はどこに存在するのか?

自分探し

どうも、矢島ヒデです。

ここ20年ほど、『自分探し』みたいなものがブームな気がします。

本来の自分を求めて、ふらっと1年くらいインドを旅したり、何か特別な体験をしたり、あるいは最近流行りのオンラインサロンに入ってみたり・・・。

若い世代を中心に、この手の悩みを抱えている人って結構多いと思うんですよ。

かくいう私も、10代後半〜20代前半の頃に、

「本当の自分って何だろう?」

と考えて、考えて、考えて・・・。

ヒデ
それこそ、ガン●ャ吸ったり、L●Dやったり、アヤ●スカを飲んでみたり(笑)とにかく色々と試してみましたが、結局自分が分からなくなってしまった記憶があります。

そこで今回は、自分探しをしてしまう人間の心理状態を分析し、本当の自分と向き合うためのヒントを提示したいと思います。

終わりのない自分探しの旅に出る前に、ぜひ一読いただければ幸いです。

なぜ、人は「自分探し」の旅に出てしまうのか?

自分探しの旅

自分探しをする理由

自分探しをしてしまう理由は簡単で、

「現状の自分が本当の自分ではない」

という実感があるからです。

これは、ごくごく単純な話です。今の自分が本当の自分だと思えるのであれば、わざわざどこかへ探しに行く必要なんてありませんからね。

今の自分とは遠く離れた場所に、「今とは異なる自分がいるんじゃないか?」という思いがあるからこそ、本当の自分を求めて人はフラフラと彷徨い歩くのです。

さらに言えば、どこか別の国へ行ったり、新しい場所に身を置いたり、あるいは初めてのチャレンジをしたり・・・。

何かしら環境を変えることで本当の自分を見つけようとする行動の裏には、

「今いる環境が自分を活かしてない!」

という漠然とした想いを持っています。

よく適材適所と言われますが、

自分を活かせる環境に行けば本当の自分が見つかるはずだし、イキイキと生きられるはずだ。だけど残念ながら、今はその場所に私はいない。だから、私は自分が何であるかもよく分からない。環境を変えることで、本当の自分を見つけたいんだ。

・・・みたいな感じで(笑)。

自分探しをしている人の多くは、ボンヤリとどこか遠くを眺めているような印象があります。

つまり、彼らの中には「遠くに答えがあって近くに答えはない」という無意識的な前提があり、それによって心が支配されているように思うんです。

別に、それ自体否定するつもりはありません。あくまで、これは僕の勝手な推測であって、客観的に正しいかどうかを議論しているわけじゃないですから。

でもね、これだけは忘れないで欲しい。

平凡なものを緻密に見てみれば、非凡なものが見えてくることは往々にしてあります。

日本には昔から『灯台下暗し』という言葉があるように、人は身近なものには案外気づきません。

そして、「海外で暮らせば幸せになれるんじゃないか」とか「私にふさわしい天職が、ほかにあるんじゃないか」等など、今の生活の”外側の世界”に過度な期待を寄せています。

だけど、今自分が置かれているこの現実をじっくりと見据えることで、本当に大切なものが見えてくるんじゃないか、と。

本当に大切なものが身近にあるにも関わらず、我々はそれを見逃して生きているんじゃないかという想いが漠然とあるわけです。

 

名作から学ぶ

バスケットの国アメリカの、その空気を吸うだけで、僕は高く跳べると思っていたのかなぁ…。

 by スラムダンクの谷沢龍二

僕の大好きなマンガの1つに『スラムダンク』があります。

そのなかで、安西先生が大学の監督をしていた頃、教え子の1人に谷沢龍二という選手がいました。

谷沢は2メートルの長身と高い運動能力を兼ね備えており、安西先生は期待するあまり厳しい指導をおこないます。

スラムダンクの矢沢龍二

しかし、谷沢にとってそれは苦痛以外の何者でもなく、

「このチームは俺に合わない」

「このままでは自分の持ち味が潰されてしまう」

と、安西先生から逃げるようにバスケの本場アメリカへ単身留学してしまいます。

けれども、大学時代に基礎練習を怠った谷沢は、自身が期待していたほどに成長することもなく挫折、冒頭の言葉を残しました。

「バスケットの国アメリカの、その空気を吸うだけで、僕は高く跳べると思っていたのかなぁ」

・・・と。


このエピソードは、我々に様々な示唆を与えてくれます。

谷沢じゃないですが、自分のやりたいことが見つからず、自分探しの旅に出てしまう人の心理を分析すると、以下3つの特徴がありそうです。

①現状の自分が「本当の自分ではない」という漠然とした想い

②今いる環境が「自分を活かしてない」という漠然とした想い

③遠くに答えがあって「近くに答えはない」という漠然とした想い

自分を変えるために具体的な努力をしようともせず、ただ環境を変えるだけで自分のやりたいことが見つかるわけがない。

もちろん、自分探しは生き方を考えるうえで重要なプロセスです。特に、若い人であれば尚更でしょう。

それを否定する気はさらさらないけれど。

例えば、「現状が辛い」「目の前の課題から逃れたい」という理由だけで自分探しをすることはいささか危険じゃないかなぁ、と余計なお節介ながらも思ってしまうわけです。

「本当の自分」を見つけるための手がかり

ジョハリの窓

ジョハリの窓

上図は『ジョハリの窓(Johari Window)』といい、主に自己分析などに使われる心理学モデルの1つ。

以下4つの項目に分類して、自己理解を深めるためのフレームワークです。

 

①開放の窓(open self) 

まず始めに、自分も他人も知っている自己の性質が『開放の窓(open self)』です。

例えば、あなたの性別や年齢、あるいは自他ともに理解されている趣味や性格などを指します。

 

②盲点の窓(blind self)

次に、自分は気づいていないが他人は知っている自己の性質が『盲点の窓(blind self)』です。

「無くて七癖」なんてよく言われますが、自分では気づかない癖や思わぬ長所・短所などがこれにあたります。

 

③秘密の窓(hidden self)

3つ目に、他人は気づいていないが、自分は知っている自己の性質が『秘密の窓(hidden self)』です。

例えば、誰にも話したがことがないような趣味やコンプレックス、トラウマなどがこれに含まれます。

 

④未知の窓(unknown self)

最後に、誰からもまだ知られてない、自分も他人も知らない自己の性質が『未知の窓(unknown self)』です。

これは具体例をあげるのがちょっと難しいですが、一般的には秘められた性格や才能などのことを指します。

ヒデ
これが一応ざっくりとした『ジョハリの窓』の解説です。

 

「本当の自分」はどこに存在するのか?

多くの人が必死に探し回っている『本当の自分』とは、ジョハリの窓で言えば”自分が知らない領域”を指します。

そもそも、自分が知っている自己であれば、わざわざ探し回る必要はないはずです。

つまり、本当の自分とは、

・盲点の窓(blind self)
・未知の窓(unknown self)

上記のいずれかであろう、と。

そして、その『本当の自分』をどこか遠くの国へ求めたり、新しい環境に身を置いたり、あるいは何かにチャレンジしたりする中で見つけようとしているのであれば、他の誰かが知っているものでもなさそうです。

誰かが知っているとしたら、単純に聞けばいいだけの話。

学校の先生や友達に、

「あのさ、本当の私って何?」

と尋ねれば、すぐに答えは出るでしょう。

でも、それもしないってことは、近くに知っている人がいないという前提があるわけです。

そう考えると、自分探しをしている人の多くは、『④未知の窓(誰も知らない領域)』を本質的に求めているということが分かってきます。

つまり、まだ発揮されていない、潜在的に眠っている自分自身の能力を掘り起こすことが”自分探し”の目的だと言えそうです。

ヒデ
とはいえ、探し求めているものは誰も気づいてない『未知の窓』。ここに”自分探しの旅”が永遠に終わらない本質的な原因があるわけです。

我々はいかにして幸福を得られるのか?

人間の幸福

自分探し=幸福の追求

前半部分では、

・自分探し
・本当の自分
・ジョハリの窓

・・・等など。

あーだこーだ小難しい話をしてきたわけですが、「なぜ人は自分探しをするのか?」と問われば、単純に幸せになるためです。

それ以上でも、それ以下でもありません。

自分探しをすることで、今よりも素晴らしい未来がやってくると信じているからこそ、我々はそれを必死に探そうとするわけです。

ヒデ
今より状況が悪化するのであれば、よほどのドMじゃない限り『自分探し』なんて面倒なことはきっとしないはず。

例えば、ご飯を食べるでも、寝るでも、起きるでも何でも構いません。人間が何かしらの行動を取った先には、必ず「今より良くなる」という前提があります。

つまり、人間は”常に幸福を目指して生きている”という揺るぎない現実があるわけです。

 

幸せに対する誤解

では、幸福とは何なのか?

これは自己啓発や成功哲学、あるいは宗教的なる分野においては、

「自分が幸せだと感じることである」

・・・と。

つまり、あなたが幸せだと思えば幸せだし、逆にあなたが不幸だと思えば不幸になってしまう。

だったら、

「自分が幸せだといつも思って生きればいいじゃないですか!」

みたいなことが、まことしやかに囁かれているわけです。

そして、この主張はそれなりの説得力をもって我々の中に入ってきます。

それは何故か?

単純に、多くの人は無意識のうちに幸せとは主観的なものであると思い込んでいるからです。

例えば、サッカーが好きな人もいれば嫌いな人もいる。サッカーが好きな人はそれをすることで幸せになれますが、反対に嫌いな人は幸せにはなれません。

そう考えると、好き嫌いというのは人それぞれだろう、と。

個人差があるのであれば、幸せの基準だって主観的なものじゃないかという感覚が自然と芽生えてくるわけです。

ヒデ
しかし、これを突き詰めていくと、何も頑張らくていい世界がそこに広がってしまいます。

極論、「いやぁ、俺って幸せだなぁ」と思いながら一生寝てたらいい。本人が幸せだと思えるなら、何もせず部屋でじーっとしてればいい。

そして、ある種の自己催眠のようなものに長けている人にとっては、それが可能だと思うんです。

それこそ、老荘思想みたいのが行き着くところまで行った先には、無為自然にぼーっとしてたらそれで幸せじゃないかみたいな話にもなってきます。

【老荘思想】
中国の戦国時代に生まれた思想の1つで、いかに個人が自由に生きるかを考えた思想。

「〜すべき」という常識に囚われるのではなく、自然のリズムに合わせて無理せず生きることこそ最上であるという生き方の哲学。

このような思想を頭ごなしに否定する気はさらさらないけれど。

ただ1つ考えて欲しいのは、

「本当に何もしなくていいですか?」

「それで本当に幸せになれますか?」

・・・と。

これはもう正しいかどうかではなく、自分がどんな風に生きたいかの話です。

たった一人ぼっちで幸せを追求していく。自分が幸せであれば、どんなに周りが不幸な状況でも構わない。

「周りの人々と一切関わりを持たない人生を生きて、本当に幸せになれるのか?」

ということを1つ考えて欲しい。

確かに、幸せとは主観的なものに見える。けれでも、完全に主観的なものかどうかを改めて考えてみてください。

恐らく、答えは「ノー」でしょう。

つまり、我々人類は、周囲と心を通い合わせ、自分が確かにこの世界に属していると実感するとき、本当の幸せを感じることができると言えそうです。

幸せの定義

【幸福論3.0】人間はいかにして本当の幸せを得られるのか?

2020年6月30日

 

幸福の定義

数千年前、西洋最大の哲人・アリストテレスは幸福について、

アリストテレス
自分の能力を最大限発揮しているときだ。

と自身の著書の中で述べています。

例えば、料理人であれば料理を作っているときであり、ミュージシャンであれば音楽を奏でているときであり、あるいは僕のようなコピーライターであれば文章を書いているときであり・・・。

自分の能力をフルパワーで発揮しているときこそ『幸せ(善)』な状態である、とアリストテレスは説いたわけです。

そして、さらに時代がずーーーと下った1990年代。

オーストリアに『ヴィクトール・フランクル』という精神科医がいました。

ナチス強制収容所での体験を元に著した『夜と霧』という非常に有名な本があるので、もしかしたらご存知の方も多いかもしれません。

彼は精神科医として、自殺願望者やうつ病患者と何百人、何千人と接する中で、ある共通点を発見しました。

それは、自殺をしたいと言っている人に対して、

「生きてれば楽しいことがありますよ」

「今は辛いかもしれないけど、もうちょっと頑張ってみましょう」

「きっと楽しいことがありますから」

という話をすると、ほぼ間違いなく死んでしまう、と。

そうではなく、フランクルが患者に対して、

「☆☆さんがあなたを頼りにしていて、凄く期待されてますよ」

「あなたが生きることによって、こんなに世界が変わるんですよ」

「○○さんが、あなたのことを必要だと言ってましたよ」

という話をすると、不思議と自殺者が減ったそうです。

彼は、ここから1つの結論を導きます。

それは、

ヴィクトール・フランクル
人は人から必要とされる限り、決して死ぬことはない。

・・・と。

人は誰かに必要とされるとき、幸せを感じることができます。

そして、人から必要とされるためには、

・能力
・存在

のいずれか、もしくは両方が関係します。

もちろん、自分の存在そのものを必要としてくれたら何より嬉しいですが、多くの場合その人の”能力”を必要とするケースが大半でしょう。

現代社会において、家族や親しい友人でもない限り、何の能力も発揮していない人間が必要とされることは稀です。

悲しいけれど、それが現実かな。

例えば、シェフであれば料理の実力を発揮しているからこそ世間から求められるわけだし、俳優であれば演技力を発揮することによって人々から必要とされる。

そのようなことが、我々の人間関係のベースにあるんだ、ということにフランクルは気づいたわけです。

ヒデ
つまり、アリストテレスの時代から何も変わってないんですよ。

人間が幸福を感じるのは、自分の能力が発揮されているとき。要するに、周りの人間にその能力を必要とされるときだと言えます。

これは、自分に置き換えてみたらよく分かるはずです。

誰だって、人から頼りにされたら嬉しいですよね。人から信頼されて、「あなたのおかげで助かりました!」と言われたらちょっぴり幸せな気分になれます。

この視点から解釈すると、本当の自分を探しに別の場所へ行くという行為も、

「自分を必要としてくれる人の中に行きたい」

「その中で、誰かに必要とされたい」

という風に捉えることができるわけです。

最後に

本来、自分探しというのは、多くの人が共通して持っているごくごく当たり前の感覚です。

それは平たく言えば、”現実の自分と理想の自分とのギャップ”のことであり、だからこそ人は苦しむし、時に悩むし、それを乗り越えて成長することができます。

ヒデ
かなりざっくりと書きましたが、今回の話は相当深いです。

もしかしたら、人によっては深く思えなかったかもしれませんが・・・。

いくら考えてもキリがない話をしたつもりなので、ぜひ自分なりの思考の無限の沼にハマってみて欲しいなぁという風に思います。

そのハマった先に、確実に『光』は見えてきますので。

どうか今日お伝えしたことを自分なりに何度も咀嚼して、今後の人生に役立てていただけたら幸いです。

ではでは、いつもよりちょっと長くなってしまいましたが、このへんで終わりにしたいと思います。

何か質問などがあれば、こちらからお気軽にメッセージをください。面白いものに関しては、新しく記事にして皆さんに共有しますので、ドシドシと送ってもらえたら嬉しいです。

以上、最後まで読んでくれてありがとうございました。

個性の作り方

個性の作り方 – 『自分らしさ』はどこに存在するのか?

2020年5月22日
自分探し

ABOUTこの記事をかいた人

矢島秀人(ヒデ)

現代社会のあり方に疑問を感じて、最強のフリーターを志す。東日本大震災を機に自立を決意、独自の手法「ブッダ∞アフィリエイト」を実践、2011年起業。現在は海の町で暮らしながら、主にネットビジネス・企業コンサル・FX投資などを行い、個人ビジネスの究極形を追求している。波乗りと旅と平和が好き。