5.人間の進化 〜 迎合と変異の狭間で

ブッダ

こんにちは、矢島秀人です。

数ヶ月振りの更新になりますが、今回はタイトルにある通り「進化」というものについて、何かしら有益な話をしていければなと思っています。

前回の記事に比べたら、内容的にはだいぶ分かりやすいというか頭が疲れない感じにはなっているはずです。

そういう意味では、肩の力を抜いて気軽に読んでもらえたら嬉しいです。

ではでは、早速中身に入って参りましょう。

進化について

進化とは何なのか

我々は『進化』という言葉を、様々な文脈の中で使っています。

一応齟齬がないように、ここで使われる進化とは「一体何を指しているのだろうか?」ということを最初に考えてみたいんですけど。

進化とは、そもそも何なのかという少し抽象度の高い話をすれば、

「進化とは、ある種の妥協である」

という見方が一つできます。

これは進化医学の分野で有名なシャロン・モアレムという学者が提唱していた概念で、僕が初めて知ったとき「なるほどなぁ」と凄く感心しました。

要するに、彼によれば「生き物のある側面が進化すると、その進化のせいで、また別の側面におけるデメリットが生じてくるんだ」と。

例えば、人間で言えば高度な知能を得た代わりにサルやチンパンジーのような驚異的な身体能力を失ったわけで、ペンギンであれば水中を泳ぐ能力を得た代わりに空を飛べなくなってしまったわけで、はたまたカラフルな鳥であれば異性に対する求愛の力が増した代わりに天敵からも狙われやすくなったわけです。

つまり、完璧な進化というものはあり得ない。

全ての進化はバーターであり、良い面があれば必ず悪い面もある。「メリットだけの進化はないんだ」ということをシャロンはこの『妥協』という言葉で表現したのです。

したがって、その進化が良いものであったかどうかは見る視点にもよります。良い面に焦点を充てれば当然良く見えるだろうし、悪い面に焦点を充てれば「そんな進化を遂げる必要はなかったんじゃないか?」という話にもなってくる。

いずれにせよ、ここで述べた「進化とはバーターであり妥協である」という感覚が今回の記事の前提になってくるので、それを念頭に置いた上でこの先の話も読んでもらえればと思います。

 

進化の要因

サブタイトルに『進化の要因』という風に付けましたが、進化を促す要因とは進化医学の立場からみれば究極的に一つしかありません。

その方法とは、”淘汰圧をかけること”。

【選択圧(淘汰圧)】
生物の進化において、ある形質をもつ生物個体にはたらく自然選択の作用。環境条件や他種との競合、天敵による捕食などによって生じる。

出典:デジタル大辞泉

圧がかかれば進化するし、圧がかからなければ進化しない。

もっと言えば、適度な淘汰圧がかかったときにその種は進化することができるし、度を超えた淘汰圧がかかるとその種は滅びてしまうという極々単純な話です。

例えば、人間の体内に適度な量の抗生物質を投与すれば、それが効かない菌が生成されて進化できますが、究極的に抗生物質を投与してしまうとその菌が全て死滅してしまいます。

淘汰圧とはそういうものであるわけですが、進化を促そうと思ったらこれをかけるしかない。

矢島秀人
少し突っ込んだ話をすると、このような考え方の根底には「ホメオスタシス(生体恒常性)」という概念があります。

ホメオスタシスとは、人間に備わったバランスが崩れたら元に戻そうとする働きのことで、外部環境の変化に関わらず生体の状態が一定に保たれる性質のことです。

生きていれば常に働いている感覚なので、僕らが実感することは普段あまりないかもしれません。

例えば、暑いときは、汗をかくことで皮膚の血管が広がるなどの反応がからだに起こります。これは体温を上昇させないよう体表から水分を蒸発させて熱を逃がすためです。

逆に、寒いときはからだが震えるなどの反応が起こり、皮膚の血管が縮むことで熱が生成されます。

普段あまり意識されることはありませんが、このような機能によって人間の体温はほぼ一定に保たれているわけです。

他にも、筋トレだったら筋肉が破壊されてバランスが崩れることで、さらに筋肉を強くして耐えられるようにしなければいけないという働きが体内で起こる。この力を利用して、筋肉をどんどん大きくする。

逆に、圧がかからなければ、バランスは保たれたままで何も変わろうとはしません。

そこでバランスを崩してやることによって、もっと分かりやすい言い方をすれば不快な領域に両足突っ込むことによって、ある程度進化の淘汰圧がかかることになる。

で、専門的な見地から、このホメオスタシスというものを社会とか人間の種の進化みたいなものに適応して良いのかどうかはよく分からないけど、僕は感覚的には良いような気がしてる。

やはり、大宇宙のバランスや生物のネットワーク構造とかを考えたとき、そういうような感覚って確かにあるんで、このホメオスタシス的な感覚というのは適応して良いだろうという風に個人的には思ってるんで、そういう話をこれからしていきます。

 

「人間」の進化

人間に限って言えば、進化とはどのようなものなのか。

一般的には、からだが大きくなるとか小さくなるとか、太くなるとか細くなるとかっていう肉体的な枠組みで語られることはほとんどありません。

それよりも、我々の思考や価値観、行動様式などが変わっていくことに『進化』という言葉が使われるきらいがあるようです。

つまり、人間が他の動植物と決定的に違う面はどこなのかと言えば、それは物理的な側面だけではなく、一般的に内面(人間を内面、外面と分けるのが正しいかどうかは別にして)と呼ばれているものを「どう進化させていくか?」が問題になっていくだろう、と。

たぶん、今この文章を読んでいる方もそういうところを求めていると思うんですよ。

もし物理的な側面だけを求めているのであれば、僕のブログを読む時間をジムで筋トレに当てたほうが進化することはできるかもしれない。

だけど、ジムには行かず、一人黙々とこんな見ず知らずの男の言葉に耳を傾けているわけだから、やはり内面と言われているものを何とか変えていきたい、高みに持っていきたいという風に思っている人のほうが多いのではないだろうか。

まぁ、少なくとも僕はそうなんで。この先も筋トレやダイエットの話には行かず、人間の思考や行動様式といった内面をどう進化させていくかにフォーカスして書いていこうと思います。

人間が進化する方法

2つのルール

様々な反論はあるでしょうが、一応前提として人類がこれまで進化してきたと仮定します。

その結果、現代人は地球環境を破壊できるほどの力を手に入れるに至ったわけですけど、それが果たして物理的な進化だけで達成できたのかと問われれば、甚だ疑問だと思うんですよ。

やはり、我々の思考や価値観、行動様式などが変化したからこそ、

資本家
地球って自由に壊していいんじゃないの?木切っていいんじゃないの?水埋め立てちゃっていいんじゃないの?

みたいな発想が生まれてきた。

だから、ダーウィンの進化論というのは、そこんとこの議論が僕が読んだ限りではあまりされていないような気がします。

性質上どうしても生物としての進化というものを語ろうとするので、人間の進化の本質的な面の一つがすっぽりと抜け落ちてた気がしますけど、今回はこのダーウィンが語らなかった『人間の部分』にフォーカスしてやろうかなと思っています。

で、本題の我々が進化する方法なんですが、人間が最も効率よく進化していくためには以下のルールに従うのが良いだろうと。

①岐路に立たされたら、常に選択したくないほうを選択する
②上のルールは絶対に守る

先ほど淘汰圧をかければ進化するという話をしましたが、要するに淘汰圧を自分にかければいいわけです。

このルールに従えば、理屈上は常に淘汰圧がかかることになる。あらまなんて簡単なんでしょう。

ただし、実行は難しいですけどね(笑)

これは実話に基づいた映画『イエスマン』の状況を想像すれば容易に理解できます。物語の中では、仕事でも私生活でも「ノー」を繰り返す後ろ向きな生活を続ける主人公が、ある自己啓発セミナーに参加したことがきっかけで、全てのことに「イエス」と答えることを誓う。主人公は何事も否定せず「イエス」を連発することで人生が好転していくというサクセスストーリーなのですが、まさにそういうこと。

もちろん、①のルールの「常に・・・」というのは軽い脅しですよ。

実際これだと「やりたいこともやっちゃいけないのか?」みたいな話にもなってくるので、そうではなく自分の中でその都度判断すればいい。

「本当はAのほうをやりたいけれど、ここでは進化のためにBをやるべきかな」

みたいな感じで、そのような思考を所々で持てればいいと思う。

例えば、一日一回そういう判断をしようとか、その程度でも構わない。

ルールでは「常に選択しないほうを選択する」とは書きましたが、「常に」くらいの気持ちでやればだいぶ人生変わるんじゃないかな、と。

広い意味で言えば、

「今日何食べようかな?ラーメンにしようかな?カレーにしようかな?」

「目的地までタクシーで行こうかな?電車で行こうかな?バスで行こうかな?」

等など、我々は常に選択に迫られているわけです。

なので、一日一個だけでも選択したくないほうを選択するってやったら、一年間で365回も淘汰圧がかかることになる。これは結構な量だと思います。

ほっとけば人間易きに流れるものだとすれば、一日一回このような選択を敢えてしようなんて変人中々いないかもしれない。

とにかく、①のルールはそこまで重く捉えず、一日一個とか週一個とかを目標にしてやるくらいの感覚で十分なんじゃないかなと思います。

 

この方法の問題点

先述した通り、

①岐路に立たされたら、常に選択したくないほうを選択する
②上のルールは絶対に守る

この方法を採用すれば、合理的に進化ができるような気がするし、我々の進化を促すには最も効率がよいと考えられます。しかし、問題が一つだけあります。

それは、進化の『方向』が分からないということ。

圧がかかる、そしてそれに適応する力を手に入れるってことが一言でいえば進化なわけですけど、進化の方向はこの方法ではコントロールできない。その道を進んでみないと分からないわけです。

例えば、辛いことが身に降りかかったとき、もう逃げ癖がついている人っていますよね。全てから目を逸していく。

でも、それも一応適応っちゃ適応なんですよ。圧がかかってぱっと危険を回避するような能力が高まっているわけですから、進化と言えなくもない。

果たして、それを僕らが進化と認めるかどうかというのは個人の価値観によるところが大きいと思いますけど、恐らく多くの人は認めないでしょう。

そうではなく、普通は試練を乗り越えていったり、何かしら問題解決をしていったりというところに主眼が置かれると思うのですが、この方向が中々わからない。

圧をかけて、終わってみて初めてわかるんです。

「あ、こっちに来たんだ」

・・・と。

なので、このような問題があるっちゃあるんですが、まぁこれを問題と言うかどうかは難しいところだと思います。

とにかく、細かく自分で自分をモニターしておくしかないんですよ。

他人は自分がどういう風に変わっているかなんていうのは見てないですから、自分で常に振り返りながら「あー俺はこう変わった」「こう変わった」「昨日はこうだったけど、今日はこうなっている」「一昨日はこういう考え方だったけど、ちょっと変わっているな」とか。

その進化の方向が、自分にとって好ましいのか好ましくないのかっていうのを常に見ておく必要がある。だから、気が抜けない。

気を抜いているとあらぬ方向に行く可能性もあるので、気を抜かずしっかりと自分をモニターしていく癖をつけなくてはいけない。

そこだけが、淘汰圧を意図的にかけることの問題といえば問題かなという風に思います。

 

「個」としての進化

『「個」としての進化』という風に書きましたが、なんでわざわざ「個」をカギカッコで入れたかと言うと、進化という言葉は普通個体ではなく、ある「種」に対して用いられる言葉だからです。

一匹だけが図抜けている状態を普通「進化」とは呼びません。進化とは単独で起こるものではなく、一定の集団が変化していくことを指します。

逆に言えば、自分が所属するコミュニティや集団ごと進化していかなければ、本当の意味で進化とは言えないわけです。

そういう意味では、自分だけ進化してやろうみたいな感覚はあまり正しいものではありません。

そうではなく、周りの進化を促すような行動が、実は自分が進化するうえでも重要になってきます。

まぁ、先ほどの「淘汰圧」ということを考えても、自分の周りが全然ダメダメな奴らばかりだったら自分にも圧がかからないので、自分が進化しようなんて気も起こらなくなってくると思うんですよ。

そういう側面があるので、やはり周りをどんどん上げていかないと、周りのためにもならないし、ひいては自分のためにもならない。

このような感覚というのは、特に仕事でアドバイザーやマネジメント的な立場にある人ほど忘れてはいけないと思う。

コンサルタントとは何か

3.職業としてのコンサルタント

2021年4月16日

例えば、これを読んでいる人の中には、会社の社長さんもいるだろうし、営業マンもいるだろうし、寺の住職さんもいるだろうし、コンサルや士業といった先生と呼ばれる立場の人もたくさんいる。

そういったアドバイザー的な職業に就いている人は、特にここを意識しないといけなくて。

いくら自分が進化して凄いコンサルになったとしても、クライアントごと持っていかないと意味がないわけで。

じゃないと、何のための仕事なのかが分からなくなっちゃう。

特に、僕みたいなタイプは昔から一人でどーんっと勝手に突き進みがちなところがあるんで、周りと共に歩んでいくんだという視点を抜け落とさないよう日々気をつけています。

進化しすぎた個体の末路・・・

「アウトサイダー」というレッテル

もし仮に、先ほどの視点を見落としているというか、「えーどうでもよくね?」みたいな感じで自分だけがどんどん上に行こうとするとどうなるかって言うと、少し悲しいことが起こります。

サブタイトルに『進化しすぎた個体』という風に書きましたけど、ある種の中で異常な進化を遂げた個体はどうなるのか。

結論から言えば、『アウトサイダー』というレッテルを貼られるようになる。

アウトサイダー、世間から浮いている状態ですね。

仲間外れの状態とも言えますが、「いや、オレ仲間外れ気にしないよ!」ってそういう問題ではなくて、そもそも僕らの仕事においてアウトサイダーになるということは存在意義の半分以上を失うことでもあるわけです。

だって、クライアントから全く理解されないコンサルっていうのは本当に必要なのかって話になってくるでしょ。

言葉が通じない、向こうの言っていることも分からない。だから、「あの人頭おかしいよ」ってクライアントからアウトサイダーのレッテルを貼られている。

でも、こっちはこっちで「関係ねーよ、どんどん進化するよ」って言って毎日修行している。この状態が、果たして健全なのかっていうことを考えたとき、やはりその存在意義というものは失われてくるはずなんですよ。

だったら、コンサルなんてやらないで研究者やってればいいじゃんって話にもなってくるんで。

冒頭でどんな種であっても進化しすぎると悲しい目に合うと書きましたが、それはどんな目かというと「存在意義を失う」という目に合います。

それは実感するとしないとに関わらずです。

 

アウトサイダーとは

ここで言葉の確認ですが、アウトサイダーとは具体的に何者なのでしょうか。

少し長いんですけど、こういう仲間外れの話をするときによく出てくるラベリング論で有名なハワード・ベッカー氏の一節を抜いてきました。

『アウトサイダーズ』という邦訳が出ているので、興味があれば読んでください。

【アウトサイダー】
社会集団は、これを犯せば逸脱となるような規則を設け、それを特定の人々に適用し、彼らにアウトサイダー(集団からの逸脱者)のレッテルを貼ることによって、逸脱を生み出すのである。この観点からすれば、逸脱とは人間の行為の性質ではなくして、むしろ、他者によって規則と制裁とが『違反者』に適用された結果なのである。逸脱者とは首尾よくこのレッテルを貼られた人間のことであり、また、逸脱行動とは人々によってこのレッテルを貼られた行動のことである。

出典:ハワード・ベッカー『アウトサイダーズ』

この世界には、客観的または普遍的に逸脱行動みたいなものがあるわけじゃないし、元々逸脱者がいるわけでもない。

まず存在するのは、社会の規範や常識といったものであって、その社会で理解されない人々のことを『アウトサイダー』と名付けるわけです。

そして、その社会では到底受け入れられない行動のことを逸脱行動と呼びます。

この最たる例が法律ですよね。法律は国によって全く違います。

アメリカには州法まであって、州によって全く違う法律が定められているので、その州の中においては逸脱者にあたるような行為でも、隣の州にいけばわりと常識的にやっていることだったりする。

例えば、僕の好物のマリファナなんかはそうですよね。

だから、「逸脱者というのは存在ではない。社会的に作られたレッテルなんだ」という感覚がアウトサイダーを捉えるうえで前提となってきます。

そう考えると、進化しすぎた個体というのは、やはりアウトサイダーにならざるを得えない。

言ってしまえば、進化とは一般的な理解の範疇を超えるという営みなので、どうしても逸脱者になってしまいがちです。そうなると、究極的には「あいつは我々とは違う生き物なんだ」「あっち行ってくれ」という風に周りから煙たがられてしまうことにもなりかねない。

それは、やはりアドバイザー的な職に従事している人にとっては致命的だと思うんですよ。

誰も自分のアドバイスを聞いてくれない。誰かの役に立とうと思って一所懸命勉強したのに、その言葉がクライアントには一切届かないわけです。

そのような状態になってしまったとき、果たしてその仕事をまだやっていく意味があるのかどうか。

このままでは、誰のためにもなりません。

そういうことが現場では起こってくるんで、あくまでも『種』で進化していくんだというような感覚を忘れないようにする。

独りよがりになってはいけないし、自分だけでどんどんやればいいんだみたいな感じにもならない。

自分の成長というものを所属しているコミュニティに還元するような視点が持てると人生楽しいんじゃないかなと思いますけど、このへんはバランスですね。

 

進化とアウトサイダー

ここまでの話をまとめると、ある種の中で進化しすぎた個体はアウトサイダーとなって、周りから理解されなくなっていきます。

言ってしまえば、逸脱者としてのレッテルを貼られるわけです。

そう考えると、自分がどの程度の理解を得たいのか、賛同者を得たいのか、仲間を得たいのか、クライアントを得たいのかによって、進化の度合いをコントロールする必要があるかもしれない。

ここで敢えて『かもしれない』という風にボヤかしたのには理由があって、後々ちゃんと説明するので今はとりあえず『かもしれないんだ』くらいに思っておいて欲しいんですけど、要するに自分が所属する集団ではどんなことが求められているのかを考えていく必要があるということです。

例えば、日本のテレビ番組や音楽チャート、本のベストセラーの傾向なんかを見てれば分かる通り、ある集団の中では「進化すればするほど周りからの支持率が得られる」という右肩上がりのグラフにはならないことがわりと多くあります。

それこそ、死後100年以上経ったあとに評価される芸術家や科学者がたくさんいるように、図抜けて進化し過ぎると周りから理解されなくなって、その結果支持率が下がっていくということが起こるのです。

その場合、どのような文化水準、知的水準、教育水準を持った集団に属しているかによって支持率がマックスになるポイントは変わってくるので、その都度自分がどういう種、集団、コミュニティに属しているかを考える必要があるかもしれない。

当然、今あなたが所属しているコミュニティは一つではないでしょう。

例えば、家族関係であったり、友人関係であったり、仕事の同僚であったり、趣味の仲間だったり、人間というのは色んな社会的な側面を持っており、一人で同時に複数のコミュニティに属しています。

そのあらゆる集団の中で、自分の役割というものをきちんと考えていく必要があるということです。

どうしても勉強が楽しくなってくると、果てしなく一人で突き抜けたくなってくる。

で、そのままこっちの世界に還ってこれなくなる人がわりと多いんですけど、そういう人っていうのはどんどんと周りから仲間がいなくなっていきます。

やはり、そういう状況になってしまうとマズいだろうという部分があるんで、そのへんは多少考えながらやっていくのがよいだろう、と。

ニーチェやゴッホみたいに一生孤独でもオレ構わないよって言うなら無理には止めませんが、みんながみんなそういう状況ではないはずなんで(笑)

そのへんは、各々丁度いいバランスを探りながらやってみてください。

進化と思考

対策は2つ

『進化と思考』という風に書きましたが、進化しすぎた個体は所属する種の行動規範や思考枠組みから逸脱し、その結果アウトサイダーになるという説明を先ほどしました。

そして、これを何とか避けなければいけないとも。

アウトサイダーになってしまったら、せっかく進化して得られたものが人生で役立たなくなってしまうので、何とかせにゃならんだろう、と。

そこで僕が考える対策は2つ。

①進化の速度を緩める(あるいは止める)
②平均的な世界も見れるよう訓練する

「①進化の速度を緩める」は、種の規範に合わせた状態で自分をとどめておく。さっき言ったコントロールですよね。

そして、「②平均的な世界も見れるよう訓練する」は、自分はぶっちぎって行くんだけど、それでもなお平均的な世界を見ることを忘れない。

この2つが大体あるかなぁという風に思うんですけど、①は簡単なんですよ。

淘汰圧をかけなくなればいいわけですから、ダラダラゴロゴロ生活していれば、勝手に進化は止まります。

でも、僕のブログを読んでるくらいですから、どうせなら②を選択したいじゃないですか。まぁ①を選択したい人は選択してくれても構いませんが、基本はたぶん②を選択したいと思うんですよ。

自分の進化を止めずに、できれば沢山の人たちと分かり合えるようなものが欲しい。

なので、これからは②のみにフォーカスして話を進めます。

 

あの頃を忘れないために

すでに進化する方法については記述したので、今度は平均的な世界というものがどういうものか忘れないようにするための方法です。

これをわざわざ訓練しなきゃいけないというのは何だか不思議な話ですが、たぶん実感するときは必ず来ると思います。

「うわぁ、俺浮いたなぁ」

みたいな感覚になるときは絶対来ますから。

これは普段から訓練しておいて損はないと思います。

ちなみに、僕はありましたよ。

ありましたっていうか常にそうだけど、学生時代からそういう感じはあるなと思ってて。しかも、これは自覚症状がないってところが結構面倒くさいというか難しいところで、自分では普通だと思っているんですよ、変な奴に限って。

で、俺は普通だしって思っているんだけど、周りからは結構変な目で見られているっていうことがあって。

そういうなんかね、自覚症状ないんだけど、例えば周りから「○○さんってちょっと変わっているよね」とか「ちょっと不思議だよね」とか「面白いよね」とか言われ始めたとか、そうなったらこの対策を講じるときかもしれない(笑)

あと、一番分かりやすいのは昔の友達と話が合わなくなる。昔はよく一緒にメシ食ってて楽しく過ごせていた時間がめっちゃ暇になってくるっていう。

「この人たち、何言っているんだろう」

「何が楽しいんだろう」

という感覚になってくる。

で、その症状が末期になると世の中みんなバカに見えるっていう、そういう悲しい部分があるんで。

僕は二十代前半のときがその末期で、そこから戻すのに相当苦労しました。

だから、やはり早期発見、早期治療が大事だと思います。早めに「普通世界」を見るための訓練をしておかないと、僕みたいに全ての友達を失ってしまうんで。

それっていうのは、まぁやっても構わないけど、普通はあんまり仲の良かった友達を疎遠にするというのは好まないと思うので、そのへんは各自判断してもらえたらなと思います。

でも、こんなマニアックなブログをここまで読んでいるわけですから、あなたも相当変わり者ですよ。

今はあまり感じなくても、そのうち周りから浮き始めた的な話があるかもれない。

例えば、昔は仲良かった人と仲良くなれなくなったとか、あるいは逆に仲が悪かった人と凄い仲良くなったとか、そういう話っていうのはパラパラ出てくるんですよ。

そして、周りの人がなぜそんなに楽しそうにくだらないことを話しているのかが理解できなくなってくる。

そのような感覚を持ってしまうと大変危険だと思うので、あの頃を忘れないために。

どんなに自分が進化したとしても、平均的な世界というものがどういうものか忘れてはいけない。

僕もサラリーマンやってた頃は会社の飲み会とか行きたくなかったし、一分一秒でも早く帰りたいとか思っていたけど、最近は楽しい理由は分かってきた。楽しい理由は分かるけど、自分はあんまり楽しくないっていう(笑)

そういう時期ってあるんですよ、絶対。

世の中の大半は俗人的で、風流を解せない人のように思えてくる。

そうなると、ある意味人としてはどこか終わってしまうので、次章では「平均的世界とつながり続けるための方法」について考えたいと思います。

平均的世界とつながり続けるために

アウトサイダーが普通世界とつながり続けるために、僕は以下のことを意識しています。

①メタ的な問い
②関係性への着目
③禁止語句の設定
④科学の限界
⑤表面的には、科学的・合理的に

これらに普遍的な何かがあるというよりは、色々試してみて自分にとって効果が感じられたものを抜粋しました。

 

①メタ的な問い

【メタ的】
ある物事がメタ(高次的)である、すなわち自己言及的な、あるいは自己を内包していることを意味する語。

出典:実用日本語表現辞典

まず一つ目が、メタ的な問いです。

メタ的な問いとは何かと言うと、

「問いに対する問い」

です。

これは相手に何か問うとき、また自分に何か問うときは、常に、同時に、メタ的な問いも考えておく必要があるということです。

例えば、分かりやすいところで言えば、

「なぜ、この問いをする必要があるんだろう?」
「この問いには、どんな意味があるんだろう?」
「なぜ、この人はわざわざ尋ねてきたんだろう?」

などの問いを『メタ的な問い』といいます。

つまり、ある問いに対して、その根拠を問うていく視点が求められるわけです。

で、これは相手に問うときもそうだし、自分に問うときもそうだし、相手が問うてきた場合もそうです。

相手が何か質問してきた場合に、その質問に対する質問をこちらの中で考えておく。

例えば、

「なぜ、彼はこの質問をしたのだろう?」

「なぜ、そのようなことを求めているのだろう?」

とかいう質問をしていく。

あ、別にこれは相手に伝える必要はありません。メタ的な問いをわざわざ口に出す必要はなく、その問いを自分の中に持っておくことが重要です。

なぜかと言うと、この視点がないとその場の文脈がわからなくなってくるからです。

例えば、質問だけを切り取って、即座に相手の悩みに答えているつもりでも、もっと広い文脈で見たらそれは正しくない答えになってしまうことがある。

しかし、一段高いメタ的な視点(=観察者の視点)から眺めることによって、そのようなミスを事前に防ぐことができます。

当然正しさや正義というのは立場によって変わってきますが、その時、その場における物事の正しさって何だろうと検討するためにメタ的な問いが非常に役立つのです。

とりわけ、ぶち抜いて進化している人っていうのは、大体相手の質問を聞いたらすぐに答えが分かります。

でも、それはあくまで自分の中で分かっているだけで、相手の文脈に置き換えたら実は全く的外れな答えかもしれない。

進化しすぎた個体というのは、その可能性に気づかなくなってくるんですよ。自分が全てだと思っているから。

そうならないためにも、常にこのメタ的な問いを投げておく必要があります。

逆に、これがないと凄く乱暴なコミュニケーションになってしまう。こっちの世界観をばーんっと相手にぶつけるだけの一方通行なコミュニケートにしかならない。

で、一番最悪なのがずーっと言いっ放しを続けて、自分の期待するようなリアクションを相手が取らないと、

「なんでこんなことも理解できないんだ、バカは!」

「だから、バカは嫌なんだ!」

とか思ってしまう。

それだとやっぱりいけないと思うんで、自己を内包した「メタ的な視点(=観察者の視点)」というのは本当に大切です。

 

②関係性への着目

で、①の内容が次の「②関係性への着目」へと繋がっていくわけですが。

物事の正しさというのは、そのことに関係する要素間の『関係性』に依存します。

先ほど話したアウトサイダーの例もそうですよね。

この世に客観的な善悪があるわけじゃなく、ある集合の関係性があって、その中で初めてアウトサイダーというものが決まってくる。

だから、関係性というものに着目しておかないと、その場における物事の正しさや求められている答えというものが分からなくなってくるわけです。

物事には、常に”二面以上”の性質や特徴があります。

まぁ、昔からよく二面性があると言われますけど、僕は”二面以上”という言い方のほうがより正確かなと思うんでここでは”以上”という風に書きましたが、とにかく色んな面があると思うんですよ。

だから、それらを全て踏まえ、なおかつ関係性に着目して正しい道を選んでいかなければいけない。

逆に、この関係性というものを蔑ろにすると一体どうなるか?

例えば、「真理は一つしかない」という風に信じ込み、相手はバカで自分は天上人という風になったら、あたかもこちらが真理を持っているような錯覚に陥ります。

つまり、こっちが言ったことが全て正しくて、相手は全て受け入れるべきだ、頑張ってやるべきだ、そしたら成功するんだから、という風な視点になってしまう。

しかし、ここで『関係性』という部分に着目したら、実は正しくない真理、答えなのかもしれない。

そもそも、時代や文化を超えた客観的かつ普遍的な真理なんてものは存在しないんじゃないかっていう、まぁここではあるともないとも言いませんが、そういう視点は忘れないほうがいいと思う。

もっと言えば、お互い関係性の中で真理というか正しい答えというものを模索していくような態度が非常に重要になってくるわけです。

ここでは実務の場面を想定して話しをする振りをしましたが、これは読書の場面でも全く変わりません。

特に、僕がよく読む哲学書みたいなものには客観的な解釈があるわけじゃないですから、今読んでいる自分とその本との関係性において正しさというものが決まってきます。

したがって、わりと多い質問の一つである、

読者さん
この本のこの部分は、どう解釈すればいいんですか?

みたいな問いってのは、実は全く問いとして意味をなさない。

それは「あなたが自由に決めてください」という話です。

そういう部分を意識的・無意識的問わず、本人が気づいているかどうかで読書の質というのも大きく変わってきます。

そういう意味でも、この『関係性』という視点は本当に重要です。

人生が変わる読書術

「読むだけ」で終わらせない。マジで人生が変わる読書術がある。

2018年12月3日

 

③禁止語句の設定

「禁止語句の設定」と書きましたが、何かを説明するとき”専門用語”と”ビッグワード”をあえて使わないようにする。

特にビッグワードは、とか自由とか悪とか善みたいなわりと大きい抽象概念を指すわけですが、そういう言葉というのは解釈の多様性があり過ぎます。

それこそ、先ほどの『関係性』という文脈が設定されなければ、意味なんか全く決まらないような漠然とした物言いになってしまう。

そのような言葉は、自分の捉えている意味を確認するためにも一度別の言葉で説明するような訓練をした方がよいと思います。

ちなみに、専門用語は相手が知っていれば使っても構いません。

専門用語の場合、意味の多様性がないことが多く人工言語であることが大半なので、わりと共通認識さえあれば使えるんですけど、ビッグワードはかなり危ない。

危ないのは意味の齟齬が起こるというのも危ないんですけど、それ以上に分かった気になるというのが一番危ない。

ビッグワードって、なんかぱっと言われると「ふむふむ」「確かに」と思っちゃうような言葉が多いんですよ。

例えば、「愛って大切だよね」「うん、確かに!」みたいな感じで無条件に受け入れがちなんだけど、普通の人は「愛って何だろう?」と考えたとき、それをぱっと別の言葉で置き換えることができない。

でも、文脈によって大切に思われている『愛』という意味は当然変わってくるわけなので、厳密に説明する訓練はしておいたほうがいいと思う。

愛の定義

愛はどこに存在するのか?〜悲惨な社会問題の解決を祈りながら〜

2020年8月26日

何となくでかい言葉で相手を丸め込むということが癖になっているわりと優秀な人は多いですけど、そういうことはではなく、細かくきちんと厳密に言葉を捉えている状態というのを意識すること。

言葉一つ一つに対する慎重さというか、丁寧さみたいなものが絶対ほしい。

僕らの知っている言葉でいえば、これは相手との共通の地平がどこなのか模索することにも繋がってきます。

 

④科学の限界

科学的なるものには限界があります。

先日の記事で近代科学の話に突っ込んで、それ以前も幾度となく科学の限界については取り上げてきたので、たぶん話自体は馴染みがあると思います。

科学的なるものってたくさんあるんですけど、例えば『因果関係』とかあるじゃないですか。

この意味は当然わかると思いますが、言ってしまえばビッグワードですよね。

よく使う単語なんだけど、因果関係の意味を「別の言葉で置き換えて説明してください」と言われたら中々難しい。

一体、何をもって”因果関係”といえるのか?

要するに、因果関係を認めるための条件です。「AとBの間には因果関係があります」と科学的に認定されるためには、どのような条件が必要になるのか考えたいんですけど、改めて言われるとよく分からなくなる。

だからビッグワードは怖いんですけど、結論から言うと科学的に因果関係が認められるための条件は大体三つあります。

【因果関係の成立条件】
①時間的
②共変関係
③パラメータ

1つ目は、時間的な視点です。

例えば、Aという現象とBという現象がある。Aが原因、Bが結果だとしたら、AはBより先に起こっているという時間的な条件が絶対必要です。まず、この縛りがないと因果関係は認められない。

2つ目は、共変関係があること。

要するに、Aだけ変わっているとか、Bだけ変わっているとか、お互いがバラバラに動いて全く規則性が見られなければ、それは因果関係とは認められない。AとBの間に「共に変わる」という関係があることが条件になってくる。

3つ目は、パラメータ(媒介変数)です。

AとB以外のその他の条件が変わっていないという状態が認められるとき、AとBの間には因果関係があると言える。

逆に、この3つのうちどれか一つでも認められなければ、それは厳密に因果関係とは言えません。これら全てに照らし合わせて観ているのかどうかっていうところが科学的には問われるわけです。

つまり何が言いたいかと言うと、科学的に突き詰めていこうとしたら『因果関係』という言葉一つ使うにも、このようなことを前提にしなければいけなくなります。

この条件を厳密に守ろうと思ったら、世の中に因果関係と呼べるものがほとんどなくなってくる。

科学というのは、実験室の中だからこのような理想的な状況が作り得るんであって、現実世界というものを中々描写できません。

過去にも近代科学の限界についてはずーっと言ってきましたが、科学的な記述の仕方では現実の世界を上手く描写できない。絶対に切り捨てる部分が出てくるし、漏れる部分があるし、見えない部分があるという言い方をしましたが、まさにそういうことが起こってくる。

そして、因果関係という言葉一つ使うにも、ほとんどのことが因果関係ではなくなってくるので、ありのままに現実を説明しようとしたら言えなくなってくる。

つまり、厳密にやろうとすればするほどこの深みにはまっていき、結果としてかえって「わかりにくい」ものとなってしまうのです。

例えば、お客さんがビジネスの相談に来て、何かコンサルしてもらおうと思ったら、「因果関係っていうのはね・・・」みたいな話から始まって、小一時間さっきみたいな説明をされた挙げ句、タイムオーバーで最終的に何も得られず帰っていく。

お客さんからすれば、

お客さん
一体、何のためにお金を払ったんだろう?

という気持ちにもなってくるわけです。

しかも、「こういうことしたら、普通はこうなりますよ」と言われたら分かりやすいんだけど、厳密に因果関係を捉えようとしたら説明も分かりにくくなる。そういう所にも単純な限界があります。

このような理由から、科学的に描写することは極めて難しくなってくるし、一部描写できるものがあったとしても一般の人には分かりにくい。

その結果、専門家にしか分からないマニアックな世界に突入してしまい、どんどんと目の前のお客さんと剥離してきちゃう。

それは現代社会における”アウトサイダー”になっていくことを意味しますので、まぁ遊びなら構いませんけど、客商売をするならこのへんを抑えておくことはわりと重要なんじゃないかなと個人的には思っています。

近代化の特徴

1.近代化の始まりと特徴(上)~人はいかにして神を殺したのか~

2020年10月21日

 

⑤表面的には、科学的・合理的に

で、「④科学の限界」について踏まえたうえで、何かの説明をするときは、あくまでも科学的・合理的・論理的をベースにおこなうことが大切です。

先ほど述べたことと一見矛盾しているように思えますが、当然科学的な物言いをしたほうが伝わる場面もあるだろうし、ロジカルな物の喋り方、話の構成をある程度ベースに据えたほうがよい場面もあるかもしれない。

それはなぜかと言えば、いわゆる普通世界に生きる人々は近代的な世界観に中途半端に侵されているきらいがあるからです。

ガチガチではないけれど、ゼロでもない。中途半端に、表面だけさら〜っと侵食されている。

だから「心」と「体」みたいな分け方をしたときも、違和感を感じる人は誰もいないんですよ。

そこに疑問を呈していくのがワンダーワールド創設から続く伝統なわけですが、そういう視点からモノを語ると普通世界の人は全く理解できなくなる。

別に理解する能力がないのではなく、これ以外の思考の枠組みをそもそも理解する気がないのだと思います。

そのため、彼らに話をするとき、モノを書くとき、説明するときはやはり二元論みたいな思考をベースに据えなきゃいけないこともあるだろうし、線形的なリニアな物言いを心がけなきゃいけないこともあるだろうし、理解しやすいようにロジカルな構造にしてあげる必要もあるかもしれない。

だって、そういうものをベースにしないと話が全く通じないから。

僕らの言葉で言えば相手との共通の地平がどこなのかを見定めて、表面的な科学性・論理性というものをベースに据えないと、相手にとって全く意味の分からないものになってしまう。

もちろん、そこで終始するのか、そこから僕らみたいに近代的世界観をぶっ壊していく方向に進むのかは各々自由に決めてください。

そこは各人の判断ですけど、あくまでもベースはここに持っていかないと中々難しいんだということを理解しておくことはわりと重要なんじゃないかなと。

だって、普通に生きてたらやっぱり二元論で考えているしね。「心」と「体」って言われても何の違和感もないじゃないですか。

素朴な感覚として、なんか二つに分れている気がしますから。

で、「理性」と「感情」ってなんか対立するもののような気がしている。

全く対立するものではないと僕は思いますけど、普通に考えたら「理性で感情をコントロールする」みたいな発想というのは違和感がないわけです。

今述べたのはほんの一例であって、このようなケースは往々にしてあります。

なので、現代人の多くはそういう近代的な世界観の中で生きる人たちなんだっていうことを十分理解したうえで、話であったり、説明であったり、アドバイスであったりを構築していかなければいけない。

科学の限界を認識していながらも、相手が立っている地平如何によっては、あくまでもこのような物言いを求められる場面があるということです。

このような理由から、自分は今誰に対してモノを言っているのか、どういう人に対して説明しているのかを常に忘れないないよう気をつけています。

近代化の特徴

1.近代化の始まりと特徴(上)~人はいかにして神を殺したのか~

2020年10月21日

最後に

さとりを開いた者は、すべての理論を放棄する。なぜなら彼は、物質、感覚、知覚、反応、意識、それらの本質およびその生成と止滅を見極めているからである。

- ゴータマ・ブッダ -

最後に、全く近代的ではない話をします。

本文でも言及しましたが、僕はついつい人を見下してしまうことがあり、どうしたらこの癖を治すことができるのかずっと悩んでいました。

そんなとき、僕自身の考え方と生き方を大きく変えたのが『瞑想』です。

瞑想と言えば、2600年前ブッダが菩提樹の下で実践し解脱に至ったという究極の修行法なわけですが、初めてその存在を知ったとき、深い迷路を彷徨った末に「やっと王道に出会えた」と感じました。

自我の強い人は、他人をけなしてバカにしては自分が偉いかのように振る舞います。瞑想をすることで自我は徐々に消えていき、人を傷つけるようなことはしなくなります。瞑想の実践を通して、自分と向き合うことの大切さを知ったのです。

根気よく瞑想を続けていると、やがてある根本的な事実に気づきます。

それは「感覚が絶えず変化する」ということ。一瞬一瞬、体中になんらかの感覚が生じて変化する。一瞬たりとも止まらない。

からだの感覚を観察していると、『わたし』の正体は絶えず変化するプロセスの集合体であるということが理屈抜きに分かってきます。

ブッダ
この世の全ては無常である。より深いレベルの現実をみれば、生物、無生物を問わず、宇宙全体が絶えず何かに「なる」というプロセスの集まりであり、生まれては消える現象なのである。

ブッダによれば、それに最近では多くの近代科学者も口を揃えて言っていますが、我々は誰もがみな休みなく変化する微粒子の流れに過ぎません。

そして、この事実を誰かに教えられたり頭で覚えたりするんじゃなくて、自分のからだの感覚を観察し、自分のからだでその事実(無常の現実)をありのままに体験することで、自らの見性、つまり人間に元々備わる根源的な本性を見極めることが大事だと言う。

ところが、これが実に難しい。

じっと座って観察すると、自分に落ち着きがないことがよくわかる。静めようとするともっと落ち着かなくなるんだけど、じっくりと時間をかければ段々と落ち着いてきて、捉えにくいものの声、大自然の気息のようなものが聞けるようになってくる。

それが実は一つに溶け合った世界だと知り、全身の感覚がスーッと消えてきて、感覚が、からだが、完全に溶けていく。閉じたまぶたに感じる明るさが増し、開くと世界がクリアに見える。

ゆったりした心で今この瞬間が隅々まで知覚できるようになり、今まで気づかなかったものがたくさん見えてくる。

しかし心の穏やかさといったら、かつて経験したことのないものである。心には何の不安も渇望も嫌悪もない。

強いて言うなら、それは一種の宗教的恍惚感かも知れず、恍惚といってしまったのでは身も蓋もないが、やはり恍惚感としかいいのような世界である。

「あぁ、なんて平和なんだろう。超気持ちいいな、これ・・・」

という状態をニルヴァーナと呼ぼうと、涅槃と呼ぼうと、解脱と呼ぼうと、どのような名前で呼ぼうと構わないけれど。

僕にとっての瞑想は、毎日サーフィンしたり散歩したりするのと同様、心の衛生を保ち、他人や自然と調和しながら幸福に生きていくために欠かせないものとなっています。

以上、最後まで読んでくれてありがとうございました。

ブッダ

ABOUT運営者

現代社会で生きることを早々と諦め、ノマドになる。税金や法律の都合上、2013年に一人株式会社設立。現在は海の町で暮らしながら、主に執筆活動・企業コンサル・FXトレードなどを行い、個人ビジネスの究極形を追求している。波乗りと自然と平和が好き。ブッダを敬愛してやまない。