愛はどこに存在するのか?〜悲惨な社会問題の解決を祈りながら〜

愛の定義

どうも、矢島ヒデです。

本日のテーマは『愛』です。

当ブログの中でも、相手を思いやるとか相手本位になるとか、そういった趣旨のことを散々書いているわけですが、それは具体的にどういう状態なのか?

また、どうすれば可能になるのか?

今回は、そこを掘り下げて考えてみたいと思います。

ヒデ
さらに言えば、昨今なるべく世間から遠ざかるようにして暮らしている僕の耳にも、国内外問わず色んな悲しいニュースが入ってくるんですよね。

それらの根本的な原因を考えたときに、愛について書き記すことは有益ではないかと思ったので、今回のテーマを取り上げてみました。

ニュース以外にも、もっと身近な問題でいえば、例えば家族との接し方であったり、友人や恋人との接し方であったり、仕事のクライアントとの接し方であったり・・・。

そういったものに関しても、非常に大きな意味を持つと思うので、ぜひ最後までじっくりと読んでもらえると嬉しいです。

『愛する』ことのスタート地点はどこか?

愛の意味

少なくとも、第一人称と第二人称が存在している

何事もそうですが、スタート地点も分からず、ただ闇雲に議論しても意味がありません。

それは形而上学にはなるかもしれないけれど、あまり地に足ついた議論とは言えないからです。

そこで、まずは『愛する』ことのスタート地点について考えてみたいと思います。

ヒデ
まぁ、いくつか条件はあるんでしょうが、少なくとも一人称と二人称が存在していなければ、愛は生まれませんよね。

要するに、『私(一人称)』と『あなた(二人称)』ってことですが。

ここで”人称”という言葉を使ったのには理由があって、”主体”である自分と”客体”である誰かが存在していることが前提となるからです。

当然ですが、

「愛することは、愛する対象がなくても可能なのか?」

と問われれば、答えは『ノー』ですよね。

例えば、世界で一人ぼっちで、誰もいない、何もいないような状況を想像して、その中において誰かを愛することはできません。

つまり、愛する側も愛される側に依存しており、愛する対象がなければ愛することはできないという結論が導けます。

言い換えれば、自分が主体的に何かを愛しているわけじゃなく、相手側がこちらの愛するという行為すらも規定する、ということ。

ちなみに、これは「愛は見返りを求めるものだ!」とかいう次元の話ではありません。

あくまで構造上の話に過ぎず、このような依存関係があって初めて、我々は何かを愛したり、何かに愛されたりすることが可能になるわけです。

人間が生きる2つの世界

<我-汝>と<我-それ>の世界

マルティン・ブーバー

愛の意義について紐解くうえで、ユダヤ人思想家マルティン・ブーバー(1878-1965)の提唱する、

『我汝』

という概念は非常に示唆に富んでおり、多くのヒントを与えてくれます。

ブーバーは、世界は人間のとる二つの態度によって二つとなる、と主張しました。

1つ目が<我-汝>、もう1つが<我-それ>という世界です。

人間関係の悩み

人間関係の悩みから解放される『我-汝』のススメ

2019年8月28日
ヒデ
<我-汝>の概念については、あとから詳しく説明するので、今は明確な意味は分からなくても構いません。

ちなみに、マルティン・ブーバーは、僕の大好きな思想家の1人なんですが、この時代を代表する天才と言っても過言ではありません。

15歳までにプラトンやカントを読破し、最終的には10ヶ国語くらいを自由に操ることができたらしく、世界中の文献にあたれる人物でした。

それでいて、ブーバーが優れていると思うのは、全く頭でっかちじゃないところ。大体天才というのは、知識や理論ばかりを優先し、全てを自分の頭の中で完結させちゃうものです。

しかし、ブーバーの哲学は、常に自分の体験に根ざしており、そこに実存性が感じられるんですよね。

しかも、この人は生涯愛に生きた人で、生前の彼に対する人望は凄まじいものでした。

有名どころで言えば、アインシュタインなんかもブーバーのことが大好きで、しょっちゅう連絡を取り合ってたみたいだし、哲学者だけど”聖人”とも称される稀有な存在だったそうです。

そんなブーバーに惹かれ、僕は最近よく彼の著作を読むのですが、以下はその一部を抜粋したものです。

世界は人間のとる二つの態度によって二つとなる。

人間の態度は人間が語る根源語の二重性に基づいて、二つとなる。根源語とは、単独語ではなく、対応語である。

根源語の一つは、<我-汝>の対応語である。

他の根源語は、<我-それ>の対応語である。この場合、<それ>の代わりに<彼>と<彼女>のいずれかに置きかえても、根源語には変化はない。

したがって人間の<我>も二つとなる。なぜならば、根源語<我-汝>の<我>は、根源語の<我-それ>の<我>とは異なったものだからである。

(中略)
<我>はそれ自体では存在しない。根源語<我-汝>の<我>と、根源語<我-それ>の<我>があるだけである。

人間が<我>を語るときは、この双方のいずれかの<我>を考えている。人間が<我>を語るとき、彼の考える<我>がそこに存在する。また人間が<汝>あるいは<それ>を語るとき、根源語のいずれかの<我>がそこに存在する。

<我>が存在することと、<我>が語ることとは同じである。<我>が語ることと、根源語のいずれかを語ることは一つである。

引用:我と汝(岩波文庫)

興味がある人は、岩波文庫から出版されている『我と汝・対話』(マルティン・ブーバー著)を買ってくれれば、こんな感じの文章がツラツラと書いてあります。

天才哲学者が書いた文章にしては、そこまで読みにくくはないはずです。

まぁ、入門と呼ぶにはちょっと深すぎる内容かもしれないけど、ぜひ手元に持っておいて欲しい一冊ではありますね。

ちなみに、今の段階では彼の思想を完全に理解できなくても構いません。

これから噛み砕いて、少しずつ説明していきますので、とりあえず雰囲気だけは抑えておいてください。

ヒデ
とはいえ、別にこれは真理ではないですからね!

あくまで一つの考え方であって、これを絶対的真理だと言って盲信する必要はありせん。

今からブーバーの見解を紹介していきますが、

「あ、そんな考えもあるのね!」

「ふ〜ん、面白いね!」

と、自分の中の思想・哲学を育てていく肥やしにして欲しいだけですので。

どうも、こういうちょっと偉い人が出てくると盲信してしまう人がわりと日本人には多いんですが、そんな必要は全くないんで、そこだけは気をつけて頂きたいなぁと思います。

 

<我>はそれ自体では存在しない

<我>はそれ自体では存在しない。根源語<我-汝>の<我>と、根源語<我-それ>の<我>があるだけである。

ブーバーの思想を読み解くうえで、「<我>はそれ自体では存在しない。」という部分は非常に重要です。

これは有名なデカルトの命題である「我思う、ゆえに我在り」、つまり「我自体は常に存在している」という主張とは完全に相反します。

自己としての<我>というのは、間違いなく世界に存在していて、そこからあらゆる事象が派生していると捉えるのが西洋哲学の伝統ですが・・・。

それに対してブーバーは、「<我>はそれ自体では存在しない。」と断言しているわけです。

そして、さらに彼はこのように続けます。

(存在するのは)根源語<我-汝>の<我>と、根源語<我-それ>の<我>があるだけである。

これは一体どういうことなのか?

この考え方は、馴染み深い人にはよく分かると思いますが、馴染みの薄い人にはちょっと意味が分からないと思います。

噛み砕くと、これは『<我-××>における××のほうが<我>を規定している』ということです。

この考え方は、社会学や哲学の分野では一般的に知られている立場で、相手がいて初めてこちら側が存在できる、という意味になります。

<我>とは、世界の中で一人ぼっちで孤立的に存在できるものではなく、他者との関わりの中で初めて規定されるため、周りに全く何もない状態で<我>を定義することはできません。

なので、日本においても『アイデンティティクライシス』なんて言葉が言われて久しいですが・・・。

ここでブーバーがしたいのは、

「そもそも”アイデンティティ”なんてものがどこに存在するんだ?」

という議論です。

【アイデンティティクライシス】
自己喪失。「自分は何なのか」「自分にはこの社会で生きていく能力があるのか」という疑問にぶつかり、心理的な危機状況に陥ること。

出典:デジタル大辞泉(小学館)

世界の真ん中に一人ぼっちでポーンっと放り出されて、

「私は☆☆です!」

「俺は××な人間だ!」

といえる”何か”なんて存在しない。

つまり、誰か(あるいは何か)と関わることで、初めて自分が定義できる、またはアイデンティティというものが決まってくる。

そのため、西洋哲学の伝統では、間違いなく<我>がスタートですが、ブーバーによれば<我>の対になっている側がスタートで、そこから反対に我が規定されてくるんだ、という立場なんですよね。

ヒデ
これは非常に重要な立場なので、馴染み浅い人は今のうちに深くしておいてください。

 

2つの<我>

以上のことを踏まえると、<我>には2種類あるという結論が導けます。

1.<我-汝>における<我>
2.<我-それ>における<我>

もう少し噛み砕いて言えば、<我-汝>の『汝』とは、日本語で『あなた』という意味なので、他者としての”人間”が規定してくる意味での<我>です。

一方、<我-それ>の『それ』とは、人間ではなく”モノ”なので、その”モノ”が規定してくる限りの<我>となります。

ヒデ
例えば、奥さんに接する時の『僕』と、パソコンに接する時の『僕』では明らかに態度が違うわけです。

要するに、

「奥さんが規定してくる<我>とパソコンが規定してくる<我>では、全く違う<我>ですよね!」

と、ブーバーは指摘しているのです。

そのため、僕に置き換えれば、パソコンの前で執筆活動をする『ブロガー』としての<我>が規定されてくるし、奥さんと接しているときは『旦那』としての<我>が規定されてくるし、もし子供がいたら『親』としての<我>が規定されてくるわけです。

このように色々な<我>が規定されるけれど、それを規定しているのは常に<我-××>における××のほうなんですよね。

それにも関わらず、全部取っ払って「矢島さん、あなたは何者ですか?」と問われても、ブログを書くこともあるし、奥さんからすれば旦那だし、親からみたら息子だし・・・。

その全てを挙げていったらキリがありません。

つまり、人間は<我>だけでは存在できず、何かしらの関係の中で初めて<我>というものが規定されていく、と言えるのです。

そして、これがブーバーが主張した、

マルティン・ブーバー
世界は人間のとる二つの態度によって二つとなる。

ということの本質的な意味です。

 

<我-それ>における<我>とは?

先述した通り、人間に接しているときの<我>と、モノに接しているときの<我>は明らかに異なります。

前者の場合、親にとっての息子、奥さんにとっての旦那、従業員にとっての社長といった風に、あらゆる関係の中で<我>が規定されていくわけです。

そして、息子としての『私』、旦那としての『私』、社長としての『私』といった風に、社会的な役割が簡単に決まってきます。

要するに、<我-汝>の関係における<我>の特徴とは、平たくいえば”社会性”のことなのです。

ヒデ
では、ここで一つ質問です。モノに規定された<我>ってどんなものか答えられますかね?

例えば、パソコンに規定された『私』とは何でしょうか。

他にも、机に規定された『私』、椅子に規定された『私』、コップに規定された『私』、スマホに規定された『私』・・・。

まぁ何でも構いませんが、モノが規定する<我>の在り方、特徴についてちょっと考えてみてください。



大前提として、まず<我-汝>の関係における<我>も、<我-それ>の関係における<我>も共通していることが1つあります。

それは当たり前ですが、自分と何か(汝・それ)の関わり方という構造は一緒なので、向こう側がこちらを規定してくることに変わりありません。

言い換えれば、どちらも向こうの在り方に、こちら側が合わせなければいけないわけです。

例えば、親の前で、僕は息子以外になることは不可能です。一旦<我-親>という関係を築いてしまったら、自分は息子と規定されるので、本人が望むと望まざるとに関わらず、向こうの在り方にこちら側が合わせる必要があります。

しかし、よく考えてみてください。

モノには社会性がないので、「息子」「旦那」「社長」といったような一義的な役割が簡単には決まりません。

つまり、<我-それ>の関係を築いた場合、そこから人間性が剥奪され、<我>自体もモノ的な存在となってしまうのです。

ヒデ
これはパソコンに置き換えて考えてみると、よく分かると思います。

例えば、

「俺はこのボタンを押したら『A』と打ちたいんだよ!」

と思っても、パソコンのルールは既に決まっているので、こちら側がパソコンの在り方に合わせなければいけません。

当然ですが、人間がパソコン的な在り方にならなければ、パソコンは使えないわけです。

これは机だろうが、椅子だろうが、ハサミだろうが、向こうの在り方にこちら側が合わせるという意味では全て一緒です。

このように、<我-それ>の関係を築いた場合、そこに<我>はなくなりモノになってしまいます。

もっと分かりやすく言えば、<我-それ>ではなく<それ-それ>の関係になってしまい、そこから人間性が失われてしまうのです。

ヒデ
これは非常に重要な視点です。

人間を相手にしているときはこちら側も人間であり、モノを相手にしているときはこちら側もモノになる。

そのため、相手を人間として捉えれば自分も人間のままですが、相手を道具として捉えた瞬間、自分も何かしらの道具に成り下がり、それはもはや人間の所業ではなくなってしまうのです。

要するに、自分が相手をどう見るかによって、自分が規定されてしまうわけですね。

さらには、ブーバーの論に即すると、

・<我-汝>・・・人間対人間の関係
・<我-それ>・・・モノ対モノの関係

この2つのみが存在し、『人間対モノ』の関係は作れないという事実が見えてきます。

この段階では、一概に<我-それ>が悪いと言っているわけではありません。ただ、そのような特徴があるということは抑えておいてください。

日本が病んでいる本当の理由

現代的な社会問題の原因

現代社会の悲劇

ヒデ
ここまでの話を踏まえて、現代的な社会問題の根本原因について考えていきたいと思います。

現代社会の悲劇と聞いて、それぞれ思い浮かべる光景は違うかもしれません。

例えば、

・少子高齢化
・政治不信
・自殺
・ひきこもり
・ブラック企業
・動物の殺処分

・・・等など。

ここまでの話を踏まえると、そのほとんどの根本原因は以下の1つに集約されるだろう、ということがボンヤリと見えてきます。

それが、<我-それ>の関係ではなかろうか、と。

<我-それ>、つまりモノ対モノの関係ですよね。程度の差こそあれ、我々は人間をモノとして捉え、翻って自分もモノになっています。

これは、自覚的・無自覚的かどうかは問いません。自分的には相手を人間として接しているつもりでも、無意識的に<我-それ>の関係になっているケースは多々あるからです。

そして、そういう人が溢れ返っているのが現代社会の特徴だと言えます。

身近な例で言えば、最近の『言葉遣い』なんかもそうですよね。

例えば、

「アイツ使えねーな」

「付き合うだけムダ」

「役立たず」

等など、どう考えても人間をモノとして捉えているような発言が増えているのも、<我-それ>の進行を象徴する現象の1つでしょう。

卵が先か、ニワトリが先かは分からないけれど、そのような言葉を発することによって、<我-それ>の関係を助長する傾向にあることは否めません。

他にも、婚活サイトやマッチングアプリなんてものが世間では大流行していますが、多くの女性が結婚相手を選ぶとき、絶対的な条件として挙げるのが『年収』らしいのです。

日本の未婚率は年々上昇中ですが、その根本的な原因も<我-それ>人間の増加だと言えるでしょう。

そもそも、ずっと一緒にいたいパートナーがいるから『結婚』という選択肢があるのに、そのパートナーと出会う前から結婚を考えるなんて順序がデタラメ・・・。

そんなんで、本物の愛が芽生えるはずないじゃないですか。

さらに、日本の法律では、動物は”モノ扱い”です。人間と同等に扱われないから『殺処分』と呼ばれるわけですが、これは完全にモノを捨てる感覚ですよね。

それが良いか悪いかは別として、少なくとも我々はそういう感覚の中で生きている。

このような視点で、現実社会に目を向けてみると、非常に残念で悲しい出来事はたくさんあるわけです。

 

<我-それ>関係が生み出すもの

ヒデ
まぁ、察しの良い人であれば薄っすらと分かると思いますが、モノ対モノってことは、そこに人間性が排除されるわけですから、必然的に孤独や疎外を生んでいくのは至極当然の話です。

なぜなら、<それ>とは単にモノであり、モノとは純粋に『機能』に還元されるからです。

例えば、座り心地が良いイスと座り心地が悪いイスがあれば、間違いなく後者は廃棄処分の対象になります。

それは、モノとしての存在意義が『機能』に還元されるからに他なりません。

モノ自体ではなく、機能で価値を判断される世界。

言い換えれば、<我-それ>の関係とは、存在そのものではなく『機能』が尺度になる世界だといえます。

この感覚は、会社勤めをしている人ならよく分かるのではないでしょうか。

仕事で結果を出せない人間は、リストラや左遷の対象になりますよね。

つまり、

「アイツは使えないからいらない!」

「お荷物だからさっさと捨ててしまえ!」

・・・と。

その人の”成績”という一面的な機能だけをみて、簡単にポイッとするわけですから、それはモノ以外の何者でもないわけです。

で、これが良くも悪くも現代社会の普通なのです。

そういう関係の中で生きている我々にとって、<我-それ>の関係はデフォルトで設定されていると言っても過言ではありません。

そして、この根本原因が幼少期の『教育』にあるのではないか、と個人的には考えています。

 

学校教育の問題

すべてのことに対して、他人と比べるような世の中が嫌なんだよ。

例えばそいつの傷を探して、よってたかって開くような真似はやめて欲しい。そいつは痛みをかばうために、周りに攻撃的になるだろう。

例えば彼女に、一つの価値観を押しつけないで欲しい。彼女は絶望して、一人ぼっちになろうとするだろう。

俺たちは車やテレビじゃない。他との性能を、嫌でも比べられちまう。そんな視線には、そんな社会にはもううんざりなんだよ。

     - 戸川博人 -
(ドラマ『未成年』の主人公)

教育の現場では、子どもが教師の教育的な『愛』を感じ、教師に心を開くことができるような<我-汝>の関係が求められます。

ここに異論をはさむ人はいないでしょう。

しかし、現代社会において<我-汝>の関係はほとんどない、ということがブーバーの論に即すと分かってきます。

それは、一体どういうことか?

例えば、

「良い子にしていたら、愛してあげましょう」

「良い成績を取ったら、愛してあげましょう」

「悪いことをしなかったら、愛してあげましょう」

と、先生たちは生徒に対して、ある種の取引を持ちかけてくるわけです。

この行為は、あくまで子供それ自体を愛しているのではなく、「●●をしたら愛をあげますよ」という条件付きです。

要するに、教師は子供のある側面(=機能)を愛しているに過ぎないのです。

そして、これは親子関係でも全く同じことが言えます。

一般的な家庭において、

「悪いことをする子は、ウチの子じゃありません!」

「お姉ちゃんにできて、なぜあなたにできないの?」

といったフレーズは珍しくないでしょう。

この発言がどこまで本気かは分かりかねますが、単純に字面だけに着目すると、子どもは悪いことをしただけで、その存在が否定されていると解釈できます。

ヒデ
こういう家庭環境は、まぁ普通ですよね。それが良いか悪いかは置いといて、よく目にする光景だと思います。

で、そのような家庭環境に置かれると、子供はどうなるか?

当然ですが、子どもは大人の愛が欲しいので、先生や親が求める『機能』を磨くようになっていきます。

例えば、口答えをしないようになってみたり、一生懸命勉強に打ち込んでみたり、テストの点数を気にしてみたり・・・。

先生や親が期待する「●●をしたら愛をあげましょう!」と言っていることを必死に頑張ろうとするわけです。

自分の子どもの頃を思い出してみれば、そのような側面は必ずあったと思います。程度の差こそあれ、そうやって我々は大人になってきました。

では、そのまま大人になるとどうなるか?

結論から言うと、相手の『機能』を見て価値を判断する大人が育ちます。

幼い頃から機能で育ってきているので、相手の存在自体を捉えるという発想が持てなくなり、誰かと接したときに相手を丸ごと捉えるのではなく、一部の側面だけを見るようになってしまうのです。

つまり、

「あ、この人は☆☆が得意っぽい」

「この人、××がダメだね」

と、相手を値踏みするようになります。

(”値踏み”という行為は、人間は裏社会以外では売られないですから、モノとして捉えている人の発想ですよね。)

つまり、このような環境で育ってきた我々は、人間関係において<我-それ>関係を築くことがデフォルトになってしまうわけです。

そして、僕はここに現代社会が持つ不幸というか、悲劇が隠されている気がしています。

典型的な現代人<我-それ>人間の末路とは?

我−それ

失敗=存在の否定

ここまでの話をまとめると、以下の通りです。

・幼少期の経験から、相手の『機能』を見て価値を判断する人間が育ち、そういう大人が社会を担うようになる。

・人間疎外、つまり人間が道具や機械のように扱われ、人間性を失っていく。

・人を愛することも愛されることもできず、人々は孤独になっていく。

たぶん、これは無意識だと思います。

これが社会の土台となっており、デフォルトで<我-それ>関係を築くように我々は育ってきているのです。

では、機能こそが価値だと信じている人々は、現実社会においてどうなっていくのか?

まぁ色々ありますが、まず失敗を極度に恐れるようになります。

なぜなら、人間を機能に還元するので、失敗するということは『機能不全』であり、それが存在の否定に繋がるからです。

これは「心が弱い」「打たれ弱い」だけでは済まされない問題です。

その人にとって、何かを失敗することは存在の欠陥であり、「ちょっと失敗したくらいでクヨクヨすんなよ!」とかいう単純な話じゃありません。

つまり、『失敗=存在の否定』になってしまうのです。

一方、<我-汝>の関係で生きていると失敗を恐れなくなります。

とある天才発明家は、

トーマス・エジソン
私は失敗したことがない。ただ、1万通りの上手くいかない方法を見つけただけだ。

という名言を残しましたが、それも<我-汝>の関係を築ける人しか持ち合わせていない感覚です。

確かにミスったけど、

「だから何なの?」

「そんなの単なる一部分じゃん!」

「またチャレンジしよう!」

てな感じで、あまり失敗を気にしなくなるんですよね。

 

人を愛することも愛されることもできない

<我-それ>人間は、何かを愛することも愛されることもできません。

なぜなら、愛とは『生き物』の営みだからです。

当然ですが、モノ対モノの関係であれば、相手を思いやるもヘッタクレもありませんよね。

だから、日本中を見渡してみると、愛を求めている人はたくさんいて、その何割かは思い通りにならず精神を病んでいくわけですが、その根本的な原因に本人が気づけていないことが最大の問題だといえます。

つまり、「心が弱い」「打たれ弱い」という以上に、その人が生まれた社会の状況や環境による部分が大きいのです。

それなのに、

「誰も私を愛してくれない」

「誰も私を分かってくれない」

「ありのままの私を見てくれる人なんていない」

という思いだけが強くなっていく。

そりゃそうですよ。我々は『機能』で判断する世界で生きているわけですから、あなたの”ありのまま”って一体何ですか?ってな話です。

ヒデ
この問題は非常に深刻だと、僕は個人的に思ってますね。

なぜなら、「愛されたい」「愛したい」というのは人間の本能だからです。

例えば、幼少時代に親から愛されたいと思うのは当然のことじゃないですか。

だから、親の気を惹くために、子どもはイタズラをしたり、学校で良い成績を取ったり、家のお手伝いをしたり、色んなことを必死に努力するわけです。

でも、それが交換条件であれば、

「あ、この条件を満たしたら☆☆をくれるんだ!」

という感覚に染まっていきます。

で、いつの間にか元々備わっていた相手を丸ごと愛したり、考えたり、思いやったりする気持ちがどんどんと抑圧されて、どこかへ行ってしまう。

だけど、別にその気持ちがなくなったわけじゃないから、そのギャップに人々は苦しむわけです。

 

精神病の増加

このような状況の中で、現代人は孤独に陥り、少なからずの人が精神の病に陥っているのが日本の現状です。

少し調べれば分かりますが、近年うつ病や統合失調症などの精神疾患は急増しており、特に会社みたいな<我-それ>関係が強いところにいる人ほど、心が病んでいるような気がします。

(実際、自殺者数が最も多いのも働き盛りの中高年男性ですしね。)

もちろん、大人の事情で増やされている側面は否めません。が、先述したような意味での心のギャップや抑圧を抱えている人は間違いなく増えているのは事実でしょう。

ちなみに、病むという現象は『ズレ』のことです。

本来あるべき姿とズレているから違和感を感じ、それが体や精神に不調をきたします。

例えば、風邪も病の1つですが、少なくとも我々は『健康な状態(=あるべき姿)』を知っているからこそ苦しいんですよね。

もし生まれた直後から、ずーっと風邪をこじらした状態で、医者からも「あなたは健康ですね!」と診断されたら、「ま、そんなもんか!」と言ってすんなり受け入れられるじゃないですか。

だけど、本来の”あるべき姿”を知っているからこそ、

「なんだか調子が悪いな」

「ちょっと治療が必要かも」

という結論に至るわけです。

いずれにせよ、精神疾患も風邪と同じ病であることに変わりありません。

つまり、”<我-汝>の関係”が本来あるべき姿であるにも関わらず、”<我-それ>の関係”がデフォルトで設定されているから、そのズレやギャップに人々は苦しんでいるのではなかろうか、と。

逆を言えば、本人が自覚的ではないにせよ、少なくともその人の心は本来の”あるべき姿”を知っているわけです。

そして、そこに心の病を治す希望があるんじゃないかなぁ、という風に思います。

愛が生まれる場所とは?

愛が生まれる場所

①<我-汝>の関係を築く意識

ヒデ
今日お伝えしたことを踏まえると、ざっくりと「愛」や「思いやり」は以下の条件を満たしたときに生まれるのではないか、という結論が導けます。

1つ目が、<我-汝>の関係を築く意識です。

現時点で、この概念がしっくりこなくても構いません。

ブログ記事を読んだくらいで完全に分かっちゃったら、「ブーバーの人生って何だったの?」という話になっちゃうわけで(笑)。

著作を読んだり、実践したりを繰り返しながら、段々と腑に落としてもらえればいいです。

ちなみに、『汝』という言葉はドイツ語で『du』ですが、厳密に言うと日本語にはない概念だと言われています。

【du】
現代では親しい間柄や子供に対し、また、神に対してだけに用いる。

参照:Wikipedia

一応辞書では「あなた」や「君」と訳されますが、日本語で「あなた」だとちょっとよそよそしいし、「君」だとちょっと目下っぽい。

つまり、どちらでもないんですよ。

ドイツ語で『du』とは、信頼、親愛、親密、尊敬などが合わさった言葉。

だから、なぜ『汝』という古い言葉で訳されているのかと言うと、普段あまり使われない言葉だからいいんじゃないか、くらいの感覚です。

とすれば、我々はそのような背景を踏まえたうえで、

「私はあなたと仲良しです」

「人として尊敬しています」

という『du』の感覚をベースに据えた関係を築かなければいけないわけです。

 

②<我-汝>の対話を継続する努力

ここでは『努力』という言葉を使いましたが、それだとどこか嫌々やっている感じがつきまとってしまうので、『意識』と言い換えてもらっても構いません。

とにかく、諦めないってことです。

もうダメだと途中で投げ出すのではなく、どんな状況でも「相手を丸ごと理解しよう!」という姿勢を貫くことが重要です。

言うは易く行うは難し。中々上手くいかないかもしれませんが、ぜひ継続する努力を続けてみてください。

また、具体的なコミュニケーションの方法に関してはこちらの記事でまとめています。併せて参考にしてみてください。

コミュニケーション能力の向上

人生が変わる!コミュニケーション能力を劇的に高める極意とは?

2020年8月17日

 

③「いま、ここ」という現実に生きる

ヒデ
愛とは抽象概念ではなく、現実世界において『力』を持つ現象のことです。

そのため、「いま、ここ」から外れると、抽象論の世界にわーっと飛び立ってしまい、最悪戻ってこれなくなります。

抽象的な愛がどうのこうの、神がどうのこうの、信仰がどうのこうの・・・。

そういった”イデア”の世界で何かを議論するのではなく、「いま、ここ」で求められていることは何なのか。

「いま、ここ」における、愛とは何なのか?

という視点で常に物事を考えてみてください。

当然ながら、我々は今この場において、相手を思いやること以外できませんからね。

確かに、過去の誰かを思い浮かべたり、未来の誰かに思いを馳せたりすることはできるかもしれないけれど、それが抽象的な愛だったら全く意味がないわけで。

しっかりと地に足つけて、全身全霊を「いま、ここ」に注ぐんだという意識を忘れないで欲しいなぁと思います。

最後に

今回は、マルティン・ブーバーを手がかりに、本質的な『愛』の意味について考えてみました。

1つだけ勘違いしないで欲しいのが、あくまでブーバーは相手と自分を”関係性”として捉えている、ということ。

つまり、<我-汝>にせよ<我-それ>にせよ、「私」と「あなた」は絶対的に異なる存在であることが前提になっています。

そこをスタート地点として、

「<我-汝>の関係を築いていきましょう!」

というのが彼の立場なのです。

それは決して、「私とあなたは元々1つ」という神秘主義だったり、「我と汝で同一になろう」という合一思想だったり、あるいは「人であると同時に神である」という神人合一だったり・・・。

そういった謎の発想ではなく、

マルティン・ブーバー
現実的に力を持った愛じゃなければ、人々を救うことは不可能でしょ!

という真っ当な結論なんですよね。

つまり、我々人間にとっては日常生活のほうが重要であり、そこで他者と絶対的な繋がりを保つ手法の考察が『対話の哲学』として発展していったわけです。

<我-汝>の関係を意識しながら、世界を見渡すことで全く違う世界が見えてきます。

ぜひ、あなたにとって身近な人から、愛してみてはいかがでしょうか。

以上、最後まで読んでくれてありがとうございました。

愛の定義

ABOUTこの記事をかいた人

矢島秀人(ヒデ)

現代社会のあり方に疑問を感じて、最強のフリーターを志す。東日本大震災を機に自立を決意、独自の手法「ブッダ∞アフィリエイト」を実践、2011年起業。現在は海の町で暮らしながら、主にネットビジネス・企業コンサル・FX投資などを行い、個人ビジネスの究極形を追求している。波乗りと旅と平和が好き。