どうも!
ルールは守りたくないけど、
マナーは守りたい派のヒデです。
今回はタイトルにもある通り、
『メディアと洗脳』について
がっつりと語っていきます。
第一回目の本日は、
大前提の話から。
僕らは日頃、
・テレビ
・新聞
・雑誌
・ラジオ
・ネット
・・・etc。
何かしらのメディアに触れて、
日々膨大な情報を受け取っています。
そう考えると、
発信側の意図も含めた、
正しい情報の扱い方について
最低限知っておく必要があるわけです。

今回は、そういう小さな媒体ではなく、より大量の情報を不特定多数の人間に拡散している”マスメディア”が、
『一体、どうやって一般大衆を洗脳していくのか?』
という部分に焦点を絞って、お話していきたいと思います。
この記事を読んだからといって、人々を自由自在に洗脳して、オウム真理教のようなカルト集団を作れるわけではありませんので悪しからず(笑)。
その代わり、自己防衛するうえで役立つ知識は充分に得られるはずです。
ぜひ、情報過多な現代だからこそ、「どんな風にメディアと接していくべきなのか?」ということを少しでも考えて貰えるキッカケになれたらなぁと思います。
それでは、早速中身に入っていきましょう!
記事の目次
情報の二面性について

事実+意見
大前提として、我々が普段触れている情報は2つの要素で作られています。
それが、
・事実
・意見
です。
まずは、この前提を踏まえたうえで情報に接したり、情報を受け取ったりする必要があります。
ここで言う意見とは、必ずしもそれっぽくない形で発信される場合もありますが、読んで字の如く”事実ではないもの”。
例えば、誰かの信念だったり、価値観だったり、見解だったり、あるいは解釈だったり…。どんな言葉を用いても構いませんが、発信者の主観が混じった”事実とは異なる情報”のことです。
言い換えれば、”客観的な情報”と”主観的な情報”という分け方でもいいでしょう。
いずれにせよ、情報とはこの2つの要素から作られていることを抑えておいて下さい。
情報は2つの道を用意する
で、このような特徴を持った情報は、我々に対して2つの道を用意してくれます。
例えば、あなたが家でゴロゴロとテレビを観ながら、何らかの新情報を得たとしましょう。
そのとき、目の前にドドーンっと2つの道が拓けるわけです。
1つ目は”教育の道”。つまり、その情報を得ることによって一歩賢くなる道が拓けます。
そして、2つ目が”洗脳への道”です。

そうじゃなくて、仮に同じ情報を得たとしても、Aさんにとってはそれが教育的な意味を持ち、Bさんにとってはそれが洗脳的な意味を持つということ。
とにかく、僕らの前には2つの道が同時に拓かれ、常にこの岐路に立たされているわけです。
洗脳への道・・・
教育と洗脳への道。
どちらを歩くかは各々の自由ですが、残念ながら多くの人は後者の道を歩いているように見えます。
別に僕らは洗脳されたくて、その道を歩くわけではないけれど、無自覚に歩いてしまっていることが非常に多いのは事実・・・。
それは何故なのか?
以下で、その原因を解明していきましょう。
「教育」と「洗脳」の違いとは何なのか?

教育と洗脳について
過去記事で教育論についても言及していますが、
「教育って洗脳じゃないの?」
という人が、いつの時代も現れるんですよね^^;
僕は、教育と洗脳の違いについて以下のように定義しています。
教育…相手の可能性を拡げること
洗脳…相手の可能性を奪うこと
本来、この2つは根本的に”真逆のベクトル”を持ったものだと理解しておいてください。
先述した通り、同じ『A』という情報に触れたとしても、ある人にとっては教育になり、ある人にとっては洗脳になる。
それは学校なんかでも、よく見受けられる光景です。
学校とは、一応教育機関と呼ばれているように、本来生徒の可能性を極限まで拡げてくれる場所だと思われています。

現実は、そんなに可能性に満ちた人々で街が満たされているとは到底思えない。
しかし、その中でもほんの一握りではありますが、可能性を拡げまくって才能を開花させている人もいるわけです。
一体、この差は何なのか?
全く異なる情報に触れていたわけではないんですよ、我々は。
実際、僕は20代で起業して好き勝手にメシを食っていますが、昔からの知り合いで僕のような働き方をしている人はいません。
み〜んな、サラリーマンかお役人さんです。
もちろん社会的な地位は全然高いんでしょうが、どこかくたびれているような感じがするのは何故なのか。

いずれにせよ、小中高とだいたい同じ情報を受け取っているにも関わらず、全く違う人生を歩んでいるのです。
同じ先生に習い、同じ教科書を使い、同じテストを受けてきたのに、何故こんなにも異なるのだろう・・・。
これは、どっちが良い悪いの話ではなく、少なくとも何故こんなにも違いが出るのかが不思議でしょうがないわけです。
つまり、
「違いを生み出す“違い”があるとすれば、それは何なのか?」
皆さんも、ちょっと考えてみて欲しいんです。

「教育」と「洗脳」の分かれ道

教育か、洗脳か
僕なりの見解は、情報を受け取る側の”態度の問題”なんじゃないかと思ってます。
例えば、与えられた情報を自分なりに吟味、咀嚼するという態度があれば教育的価値を持つようになり、一方で無批判に「そうなんだ!間違いない!」って受け入れていくだけだと、どうしても洗脳へと近づいていってしまう。
要は、受け手に依存してしまう面が凄く大きいわけです。

では、一体受け手のどこに問題があるのでしょうか?
結論から言うと、これは受け手の『知性』に依存します。
全く同じ情報を得ても、教育と洗脳の道に分かれてしまう・・・。
その原因は受け手の知性が強靭であるか、あるいは脆弱であるかに懸かっているのです。
知性について
ちなみに、ここで言う知性とは誤解を招きやすい言葉なので補足しますが、よくモノを知っているとか、偏差値が高いとか、10ヶ国語操れるとか、はたまた有名な大学をご卒業になられているとか・・・。
それらは、全く関係ない話です。
冒頭でもお伝えした通り、これは完全に”態度”の問題だからです。
つまり、いかに世の中の真実、もっと言えば真理というものを探求していけるのかってな話なわけで。
そこを追求していく姿勢こそが、本物の知性だと言えます。
ぶっちゃけ、真理なんてものは誰にも分かりません。真理を探求するのが知性だとすれば、自分が何を探し求めているのかなんて、それを探求している人にだって分からないんです。
そのため、世の中の真実を真摯に探求していく態度を持っているのか否かという部分が、”知性的な態度”なのか、それとも”非知性的な態度”なのかを分けていると理解して貰えたらなぁと思います。
最後に

『知識学』とは、知性って何だろう、どういう発展をしていくのだろう、というようなことをひたすらに考えていく学問のことです。
次回以降、知識学というものを多少踏まえつつ、この知性というものの正体を明らかにしていきたいな、と。
そして、知性が今回のテーマである”教育と洗脳”にどんな風に関わっていくのかという部分を探っていきたいと思います。
ぜひ、お楽しみに!