1.近代化の始まりと特徴(上)~人はいかにして神を殺したのか~

近代化の特徴

どうも、矢島ヒデです。

今回は”人はいかにして神を殺したのか” という謎のテーマが付いていますが、タイトルにもある通り「近代」という時代について考えてみたいと思います。

例えば、

・近代はいつからいつまでなのか?
・なぜその時期なのか?
・近代の特徴はなんだろうか?
・近代の後は何か?
・今は?

これを全部説明できる人いますか?

もし説明できたら、相当な武士だと思います。

近代って気軽に使う言葉なんだけど、こうやってよくよく考えていくと、実は説明できないことがいっぱい出てくるんですよね。

そこで、今回は「近代」という時代を1つずつ丁寧に紐解いていこうと思います。

そんなことに意味があるのかどうかは、読み終えたあとに判断してみてください。

「近代」という時代

モダン建築

なぜ近代なのか?

【近代】
現代に近い時代。また、現代。

出典:デジタル大辞泉(小学館)

ヒデ
一応、何でこの「近代」というものをテーマに選んだのか最初にざっくり説明しておきたいんですが。

結論から言うと、我々は「近代的個人」と呼ばれる生き物だからです。

つまり、この世界を知りたければ本当の意味での近代を理解しなければならないし、そうすることで歴史における自分の立ち位置であるとか、なぜ世界で色んな問題が起こっているのかなどがスッキリと見えくるんじゃないか、と。

そして、世界をより正しく、俯瞰的に捉えたい。

歴史を知ることで、視座が高くなってアイデアの質も高まります。近代を知ることで、自己―他者―世界の全てがぼんやりと浮き彫りになってくるのです。

例えば、ビジネスをやっている方であれば、お客さんが何を求めているかとか、今後どんなものが流行りそうかとか、職場の同僚が本当はどんなことを考えているかとか、その辺の話って凄く興味がある部分だと思うんですけど。

より普遍的なレベルで、

「我々とは、どういう生き物なんだろうか?」

ってことを概念的に理解しておくことが、大きな助けになるんですよね。

どういう風な振る舞いをする生き物なのかってことは大概変わりませんので、そういうのをちゃんと理解しておく。

そのために、この近代という時代がいかにして成立してきて、今の我々にどのような影響を与えているのかをまずは理解したいわけです。

そして、何を手に入れ、何を失ったのか?

この近代というものは、色んなメリットを我々に与えた代わりに、色んなデメリットもたくさんもたらしました。

これを乗り越えようとしたのが”脱近代”と呼ばれるものですが、これまた大きな問題を孕んでいるのが現状であり、それも「さらに乗り越えて行こう」というような試みを全体通してやっていきたいなと思っています。

ヒデ
あと、近代史は単純に面白い。

映画よりも映画で、ドラマよりもドラマです。”事実は小説より奇なり”と思わせてくれるエピソードがたくさん出てきます。

大前提として、今語ったようなことが近代という時代について考察するに至った大まかな経緯です。

 

近代に対するイメージ

早速中身に入っていきたいんですが。

近代と聞いて、どんなイメージが浮かびますか?

例えば、

・資本主義
・個人主義
・啓蒙思想
・市民社会
・科学技術の発達
・金融システム
・ビル的な建物
・大量生産、大量消費
・環境破壊



他にも色々あるかもしれませんが、スペース上これくらいにしておきます。

細かい違いはあるにせよ、大体はこのようなイメージを多くの人がぼんやりと共有しているのではないでしょうか。

ヒデ
それが果たして、「どのような経緯を経て確立されてきたものなのか?」という部分をこれから掘り下げていくわけですが、記事を読んでいくにあたって1つだけ注意点があります。

それは、本文中で「近代」という言葉を何度も使いますが、それは「西洋」とセットだと考えて欲しいんです。

僕が、近代化と言ったら、西洋化とイコールで考えて貰っても構わないくらいセットです。

もちろん、学問的な立場によっては「近代化=西洋化」という考え方を批判する方々もいますが、一応今回は「近代化=西洋化」として話を進めていきます。

で、それに伴い、タイトルに付けた「神」というのも、話を分かりやすくするために「神=キリスト教の神」として話を進めていきますので、そのつもりでいてください。

ただ、この記事を全て読み終えたあとに、果たして近代と西洋は本当にイコールなのかとか、神と言うのはキリスト教の神にしか当てはまらないのかっていうのは自分なりに考えて欲しいなと思います。

いずれにせよ、概念としてはある種”普遍的な近代”というものをえぐり出していくことが目的です。

ヒデ
そもそも、日本語の「近代」は、元々は英語の「modern」、ドイツ語の「Neuzeit」の訳語として考案された和製漢語です。その事実からも分かる通り、個人的には”西洋を語らずして日本の近代化は語れない”とすら思ってます。

中世ヨーロッパの話〜絶対的な「神」が君臨していた時代〜

中世ヨーロッパ

近代化の土壌

【広義的な時代区分】
古代

中世

近代(近世)

現代

近代より前のことを我々は普通「中世」という風に表現することが多いですが、その中世ヨーロッパの話から始めます。

以下は、旧約聖書から抜粋した一文です。

われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう。

- 旧約聖書 -

で、この後に、獣とか魚は全部食料として与えようとか、人間は何食べてもいいよとか、全部を支配しておけみたいな文言がズラーっと続いていくわけですが・・・。

当時の世界観を図式化すると、





その他

という関係になります。

神様がいて、その下に人がいて、最後にその他がいる。この構図で言えば、動物たちが人間に逆らえないのと同じように、人間は神には逆らえません。

特に中世ヨーロッパと言えば、神様絶対の世界です。神を批判すれば、火炙りになるような恐ろしい時代でした。

つまり、当時の人々にとっては、キリスト教の神が唯一絶対の根拠であり、彼らはこのような世界観の中で生きていたわけです。

ヒデ
もちろん、どの時代にも「異端」と呼ばれた人たちがいるので、”唯一絶対の根拠”と言っちゃうのはいささか乱暴ではありますが、絶対多数で力を持っていたのがキリスト教の神なので概ね間違ってはないと思います。

 

神を殺さなければ近代化はない

ここで重要なのが、「この神を殺さなければ近代化はあり得ない」ということ。

さっき近代のイメージをたくさん出しましたが、神様が全ての原因、つまり全てを支配しているのが神だとするならば、さっき言ったみたいな発想は一切出てこないはずです。

例えば、近代化を象徴するものの1つに『科学』があります。

しかし、これも神様が全てだとすると、

「あ、リンゴが落ちた!」

神の意思が働いているからだ。

「ここに川が流れている」

神の意思が働いているからだ。

「あ、そこに動物がいる」

神の意思が働いているからだ。

それで全てが終わっちゃうんですよ。

これだと、我々の考えているような科学的な説明は一切行われません。だから、そこから先がない。

仮に何か科学的な思考を生もうとしたら、この神がいたら不可能です。言ってしまえば、その存在自体が邪魔になってくるのです。

ヒデ
それ故に、人間は神様を殺さなくてはいけないという結論に至るわけですが

たぶん、当時の人は「殺さなきゃいけない」とは思ってなかったはずです。

だけど、我々がこの時代を後から振り返ってみたときに、もし中世ヨーロッパのキリスト教絶対の世界を近代化させるのであれば、この神の存在を消さないとどうしようもないという事情が見えてきます。

つまり、ちょっと見方を変えれば、近代化とは”キリスト教の神を殺していくプロセスに他ならない”とも言えるわけです。

「近代」を支える3つのエンジン

産業革命

近代を支え、促進するには以下3つのエンジンが必要です。

①啓蒙思想
②二元論
③主権国家体制

近代について書かれた本っていっぱい出てるので、読んでもらうと色々な話が出てくると思うんですけど大体偏っています。

例えば、啓蒙思想の説明しかしていなかったり、二元論をひたすら諸悪の根源みたいに言っているだけだったり、あるいは社会学的な話しかしていなかったり・・・。

正直、かなり偏っている。

偏っているということは、ある側面しか表現できてないってことと同義なので、それらを全て統合しなければ近代の全体像は見えてこないことが分かります。

冒頭でも書きましたが、我々の目的は近代の全体像を浮き彫りにすることです。

そのような理由もあって、まずは啓蒙思想・二元論・主権国家体制の3つに僕は整理してきました。

その中でも、今回は『啓蒙思想』に焦点を充てて説明します。残りの二元論、主権国家体制については、次回以降詳しく説明する流れになるので悪しからず。

啓蒙思想とは ~神から人へ〜

啓蒙思想の始まり

啓蒙思想とは、Enlightenmentという言葉が示す通り、「理性の光で暗闇を明るくする」という意味です。

ここで言う暗闇とは、宗教的な世界観のこと。

つまり、神様っていうものに全ての原因を求めるあまり、本当の原因がわからない状態。曖昧モヤモヤしているような状態を暗闇という風に表現しています。

Wikipediaの記述も、一応参考までに載せときます。

啓蒙思想(けいもうしそう)(英: Enlightenment、仏: Lumières、独: Aufklärung)とは、理性による思考の普遍性と不変性を主張する思想。その主義性を強調して啓蒙主義(けいもうしゅぎ)ともいう[1]。ヨーロッパ各国語の「啓蒙」にあたる単語を見て分かるように、原義は「光で照らされること」である。自然の光(ラテン語: lumen naturale)を自ら用いて超自然的な偏見を取り払い、人間本来の理性の自立を促すという意味である。

出典:ウィキペディア

ごちゃごちゃと書かれていますが、要するに「理性に対して絶対の信頼を獲得していく」ということです。

神様に全ての根拠を求めるのではなく、自分の頭で考えて答えを出そうよってな発想です。

ヒデ
啓蒙思想は、近代を象徴するキーワードの1つですが、18世紀のフランスに啓蒙思想の非常に有名な一派「百科全書派」がありました。

「百科全書」という辞書みたいなものを作った人たち。

だから「百科全書派」って言うんですけど、その中のディドロという男が非常に興味深い人生を送っているんですよね。

ドゥニ・ディドロ

出典:Wikipedia

ディドロは、元々12歳くらいのときに修道院に入っています。その修道院で誰よりも敬虔なクリスチャンで、誰よりも真面目に勤め上げたそうです。

だけど、16歳のある日、突然修道院から飛び出し、そこからいわゆる哲学者みたいな活動をして名を馳せていきます。

だから、元々は本当に敬虔なクリスチャンで、神様のために全てを捧げていた人なんですけど、それが途中で「百科全書派」の代表となり、晩年は自伝的な著書でこのようなことを言っているわけです。

幼いころ、あのように必死で神に仕えていた、あれは何だったのだろうか?――あれは性の目覚めだったのである。

- ドゥニ・ディドロ -

(哲学者・美術評論家・作家)

これはさらっと読むと、「ふーん」なんですけど、実は凄いことを言っていて。

あの当時、啓蒙思想の時代ですから、

「神様じゃなくて理性だよ」

みたいなことを言っている哲学者はいっぱいいたんです。

「私は一時、宗教によって迷わされたけれども、理性の光で正しい道を取り戻したんだ」

みたいなことを言っている人はいっぱいいたんですけど、ディドロが言っているのはそれですらない。

彼は、

ディドロ
神様への信仰心なんて、オ○ニーと一緒だよ!

と言っているわけです。

もう迷いとかですらなく、それは思春期特有の生理現象なんだ、と。

つまり、神様というものが何でもなくなっちゃった時代。オ○ニーと同列に扱われるような時代。

個人的には、啓蒙思想のピークというのは、この辺りに表現されているんじゃないかなという風に思うのです。

で、彼が代表になって出版した百科全書も、全ては翻訳されていませんが、岩波文庫から『百科全書―序論および代表項目』というタイトルで出ています。

その序論を書いたのはダランベールですけど、これまた啓蒙思想を象徴する面白い記述が載っていて、

ダランベール
この字引(辞書)は単にわざとアルファベット順に並べてある。

という風に書いてあるんです。

書いてあるっていうか、誇らしげに宣言している。「どうだ、アルファベット順だぞ」ってな感じです。

で、それを最初読んだとき、

「いやいや辞書だし、当たり前じゃん!」

って思ったんですけど、ふとそれが当たり前じゃないってことに気づくわけです。

なぜ、ダランベールがわざわざ序論で「これはアルファベット順だよ」という風に声高らかに謳い上げたのか?

これは啓蒙思想の時代と、それ以前の時代の特徴を考えればすぐ分かると思います。

当時、アルファベット順の辞書なんていう発想すらなかったからです。

例えば、神って英語で言ったら『God』ですよね。これをアルファベット順で並べたら『Dog』とか『Cat』よりも下に来ちゃいます(笑)

中世の時代では、このような世界観はあり得ません。

天地創造の神は、やっぱり一番上にいてくれないと困る。神から全てが生まれてきたわけだから、神はトップにいなければいけない。

しかし、百科全書では神も犬もノミもシラミも全部一緒くたにして扱った。

だから、ダランベールは冒頭で誇らしげに「これはアルファベット順だよ」と宣言したのです。

ヒデ
啓蒙主義のピークを語るのに丁度いいストーリーではないかなぁと思って紹介ました。大体これが18世紀くらいの話です。

啓蒙思想がもたらした影響 その1

合理的な世界観

ここでは、啓蒙思想が我々にもたらした「近代的世界観」について考察します。

 

①合理性(線形性)

ヒデ
啓蒙思想がもたらしたものの1つに、非常に合理的で直線的な世界観があります。

まず、啓蒙思想からスタートすると、合理的な発想が生まれてきます。

啓蒙思想とは、

「理性に合わせていくことが善であり正しい」

という発想ですから、当然合理的になりますよね。

ちなみに、現代的には『合理+性』が正しい表現ですが、当時の意味合いとしては『合+理性』みたいなニュアンスで使われていたんじゃないかと思います。

そして、線形性とは”一次関数”のことです。グラフにした時に直線となるような性質のことで、例えば『y=4x+2』は座標平面で表すと以下のようになります。

1次関数
ヒデ
「xの値を決めればyが自動的に決まる」というところが非常に合理的ですね。

Aが決まればBが自動的に決まる、こういう発想は啓蒙思想から生まれています。

ちなみに、この座標平面を作ったのは近代哲学の父と評されるデカルトですが、さらに彼は合理性によって「要素還元主義(分析主義)」という発想が生まれてくると主張しています。

 

②要素還元主義(分析主義)

要素還元主義とは、一言でいえば「分からないものは分かるとこまで細かく分けて考えましょう」という発想のこと。

例えば、高校や大学で数学を勉強した人なら聞いたことがあるかもしれませんが、

学校の先生
応用問題は、基本問題の組み合わせです。複雑な問題はバラバラにして、一個一個の答えを出して最後にそれを足し合わせたらいいんですよ。

みたいなことを、よく学校や塾の先生に言われていたはずです。

他にも、ビジネスをやっている人ならお馴染みの概念だと思います。例えば、Web広告のテストをする時なんかは、物凄い細かく要素に分けていきますよね。

全体を見ても分からないもんだから、クリック率や成約率、バナー広告のクリエイティブ、広告の入札単価等など。さらには、LPのヘッドコピーをテストして、サブヘッドをテストして、商品の価格を変えてみて。

それぞれの項目を最適化していって、「それを全部合わせたら一番良くなるでしょ!」という発想のことです。

これは、非常に科学的な発想だと思います。

過去にコピーライティングの記事を読んでくれた人は分かると思いますが、そこで僕が『Scientific(=科学)』という風に表現した時代の特徴的な手法です。

その時代は若干終わっていると思いますが、やっぱり今でもそういう手法が主流になっている。

あ、別にそれがダメってことではないですよ。

『スプリットテスト(A/Bテスト)』とかやることに全く意味がないわけじゃなく、そのやり方だとわりと低いところに限界があるんで気をつけましょうって話です。

理屈で考え過ぎると、ロマンを失くしてしまう。そこで失う代償は、決して数字では測れないものだと思います。

例えば、近代が生んだものの1つに『拝金主義』がありますが、お金を拝むと書いて『拝金』って文字にするとなんか凄いんですけど(笑)

拝むの意味は、神仏などに手を合わせ頭を下げて祈ることで、主義は一番大事ってことなんで、要はお金に魂を売るということです。

別に数字を追いかけるなってことではなく、全体を見ましょうよって話です。

ちょっと話が逸れましたが、要素還元主義とは「複雑なものはバラバラにして元に戻せ」という発想のことを言います。

 

③機械論

これもデカルトが言っていることですが、要素還元主義は『機械論』に結びついてきます。

機械論とは、端的に言えば「全てのものを機械とみなしていこうぜ」という発想のことです。

例えば、病院で手術を受けるときは、人間の体を機械とみなして部品を交換するかのように行なっていきます。

病院に行って、

患者
すみません、お腹が痛いです。

と言われたって、お医者さんもよく原因が分からないですよね。

だから、バラバラの要素に分解して見ていくわけです。

そして、

“医者”
あ〜肝臓が悪いですね、移植しましょう!

みたいな感じで。

人間全体で見たらよく分からないもんだから、各パーツごとに見ていく。

肝臓はどうだ、腎臓はどうだ、胃はどうだ、腸はどうだ、と。

体の要素を見ていって、「あ、肝臓の×××の数値がおかしいぞ」となったら、初めて「よし、この手術をしよう」「この薬を投入していこう」みたいな結論に至ります。

それは、もう完全に「あ、ガス欠だからガソリン入れてこう」みたいな機械の発想と一緒です。ここのギアにグリスが欠けててギシギシいっているからグリスを注そう、みたいな感じでモノを無機的に捉えていく。

人間で言えば、心というものを一切考慮せず、体・物体・物資でしか見ないということです。

で、この発想が『方法主義』に繋がっていきます。

 

④方法主義

方法主義っていうのは、全てマニュアル化してしまえってこと。

データを蓄積して、ノウハウが体系化され、マニュアル化されていることが良いことだって発想ですよね。

科学的に言えば、『再現性』というものを期待していくわけです。

誰がやっても同じ結果になるようにしましょう、そのためには合理的・要素還元的に物事を分析して、機械論的なモノの見方をして、ノウハウ・データ・数値を蓄積してまとめあげましょう、と。

そしたら、「世界のどこでも通用するものになりますよ!」っていうのがこの方法主義の行き着く先です。

ヒデ
これらをまとめて、『近代的世界観』という風に僕は表現しています。

つまり、近代の人々は非常に”機械的なモノの見方”をしているということです。

日本人らしい言い方をすれば、血が通っていない。非常に合理的で直線的な世界観だといえます。

で、これが良くも悪くも現代社会の普通なのです。

別に、良い悪いの話ではありません。このような思想が活発化したのが近代であり、その思考が我々の中にもデフォルトで設定されているという事実を理解しておくことが重要だと思います。

啓蒙思想がもたらした影響 その2

個人主義

次に、啓蒙思想がもたらした「近代的人間観」について考察します。

 

①自己規律性

啓蒙思想が合理的な発想をもたらし、それが人間に向いてくると『自己規律性』というものが生まれてきます。

自己規律性とは、自らをコントロール・管理する能力のこと。神様に全ての根拠を求めるのではなく、理性の光を照らして「自分で善悪の判断を行いましょう!」という発想のことです。

すると、どうなるか?

人々は、『自己中心主義』的なモノの見方になっていきます。

 

②自己中心主義(個人主義・自由主義)

ここで言っている自己中心主義には、いわゆる”自己中”みたいなネガティブな意味は込もっていません。

単純に自分を中心に据えているってだけで、個人主義的かつ自由主義的な発想のことだと思ってください。

例えば、2000年頃の日本で『援助交際』が社会問題になりましたが、その時わりと多くの大学教授があれを擁護しました。

中には、「援助交際は問題ない」という風に本とかまで発表した人もいるから驚きなんですけど、それは何故かというと、”人間は理性の力によって自己規律性が獲得されている”という発想に拠っているからですよね。

女子高生とはいえ、もう立派に思考力や判断力はある、と。

だったら、

学者
彼女たちが自分を律した結果の判断として、自分の体を自由に使って何が悪いんだ?

というのが彼らの主張です。

で、その議論に真っ向から反対できる大人が意外と少なかった。

なぜなら、我々の根本に『自己規律』的な思考がデフォルトで設定されているからです。

そのため、宮台とかいう社会学者が最もらしく「自分の身体なんだから、自分が個人の責任で個人的に管理するんだ」みたいなことを言ったら、「そうだ、そうだ」みたいな気持ちにみんなもなってきて、最終的には誰もまともに議論できなくなってしまった。

だから、あの援助交際というのは、何かうやむやなまま社会の問題から姿を消してしまったのです。

似たようなことは、よく中東で起こる日本人ジャーナリストの人質問題でもいえます。

あんなのもチャンチャラおかしい。自己責任の意味が全く違うんですけど、でも何故かあれが議論としてまかり通ってしまう。

で、ああいうものに真っ向から反対することができない。そして、反対した人たちは否応なく左翼のレッテルを貼られるみたいなことになっちゃうわけです。

とにかく、このような個人主義的な発想というのは、良くも悪くも我々の中に溶け込んでいます。

冒頭でも、我々は近代的個人だという風に書きましたが、こういう意味でもやっぱり近代的な思考になっていると言えそうです。

 

③人権思想

自己規律性が行き着くと、次は人権思想につながっていきます。

自己中心主義の場合、万人に権利を与えておかなければ自分の権利が侵される危険性があるのです。

当たり前だけど、特定の人だけが最高の権利を持っていたらおかしいじゃないですか。

だから、人間みんな平等ですよ、と。

人権思想のピークは、「自由・平等・博愛」をスローガンにして始まったフランス革命の頃です。

記事の後半で、近代を象徴する革命についても言及しますが、人権思想を拠り所にしたフランス革命も啓蒙思想が発端となっています。

ヒデ
ちなみに、この自己規律性を突き詰めていった哲学者がカントです。

カントに言わせれば、人間というのは他の動物とは異なっている、と。

なぜなら、他の動物と違って自分で決めた道徳に自分の意思で従うことができるからだ、と言っているわけです。

自己規律性を獲得していること、つまり理性的であることこそが、カントにとっての自由の象徴だったのです。

そして、これらが啓蒙思想が生んだざっくりとした「近代的人間観」だと言えそうです。

啓蒙思想がもたらした影響 その3

近代的歴史観

最後に、啓蒙思想がもたらした「近代的歴史観」について考察します。

 

①時間の線形性

啓蒙思想が合理性に結びつき、またちょっと方向を変えると時間も線形的になります。

一般的に、我々現代人が考える時間像は、両端が過去と未来に向かって永遠に延びていく『直線時間』です。

図に表すと、以下の通り。

 直線時間

では、近代以前はどうだったのか?

西洋では、キリスト教に代表されるような、時間には「始め」と「終わり」があるという限定的な直線で表すことのできる『線分的な時間』が流れていました。

そして、日本では時間は繰り返すという発想から、円を使って表すことのできる『円環的な時間(サイクリックタイム)』が流れていたわけです。

例えば、日本では春夏秋冬、春夏秋冬、春夏秋冬・・・と無限に繰り返していくし、仏教の輪廻転生という死生観もサイクリックタイムですよね。

しかし、啓蒙思想が活発化したことにより、これらは全て『直線時間』へと置き換わりました。

で、この時間が直線になると、次に何をもたらすのかと言えば”決定論”です。

 

②決定論

決定論は、先述した1次関数と意味的にはほぼ同じです。

1次関数

xの値が決まれば未来のyの値も決まる、と。

つまり、現在もしくは過去の条件さえ分かれば未来が分かる。あらゆる出来事は、その出来事に先行する出来事のみによって決定している、とする立場のことを『決定論』といいます。

だから、東京近辺では「さーってと地震が起こるぞ」みたいなことが毎年言われてたりするわけです。

あれは、完全に決定論的な思考に基づいて予測を立てています。

今こういう地殻の動きがある、プレートがこんなに移動した、火山の活動率はこのくらいになっている。

地震の研究者
さあ、あと3年後の今日に地震が起こるはずだ。

と、数式で結果が出るから発表されるのです。

天気予報なんかも一緒ですよね。

この時間のこの場所に台風がこれくらいの強さでこういう形である、そして周りの状況を計算して数値を代入していったら、明日のこの時間にはこの位置にこれくらいの大きさの台風があるはずだ、と。

このような発想のことを決定論的な思考といいます。

ヒデ
ちなみに、世界の全ての条件が分かっている人がいたら、それはどうなるのか?

それは、つまり決定論が正しいとすれば、どうなるのかって話なんですが。

これを数学者のラプラスが提唱したんで、ラプラスの悪魔とか言ったりしますけど、決定論とはそのような発想まで生んでいきます。

(ラプラスの悪魔は、20世紀初頭に勃興した量子力学によって完全否定されました。)

そして、この決定論がさらに行くと、単純進歩史観というものに結びついていきます。

 

③単純進歩史観

進歩史観(しんぽしかん、英: progressive view of history)は、歴史を人間社会のある最終形態へ向けての発展の過程と見なす歴史観。

出典:ウィキペディア

平たく言えば、「過去の失敗を明日に活かせ」みたいな発想のこと。

今日より明日、明日より明後日のほうが人間は成長している、社会は進歩している、科学技術も進歩している、何もかも進歩している。

だって、

「人間は理性の力によって成長するものなんだから当たり前でしょ!」

という発想のことを単純進歩史観といいます。

例えば、二千年前の社会よりも、今の社会のほうがはるかに豊かで、病気で死ぬ確立も低くて、寿命も伸びてて・・・。

ほーら、進歩しているじゃないか、と。

ヒデ
ヘーゲルなんかは、これをガリガリと理論化した人です。

ヘーゲルの哲学は凄く難しいので、そんなに何か熱心に読んだりしなくてもいいと思いますが、我々は知らず知らずのうちにヘーゲル的なモノの見方をしています。

一番有名なのが『弁証法』です。

弁証法

僕も好きな概念ですけど、『テーゼ(正)』に対して対立・矛盾する『アンチテーゼ(反)』をぶつけ、どちらの主張も切り捨てない高い次元の主張『ジンテーゼ(合)』を生み出すという考え方です。

正反合の連続によって、歴史も人間もすべて進歩していく、と。

まぁ、弁証法という概念自体はアリストテレスの時代からあるんですけど、これを『弁証法的三幅対』という形で、論理的かつ必要以上に難しく長い本にしたのがヘーゲルです(笑)

そして、ヘーゲルの議論で重要なもう1つの点は、究極のゴールがあるっていう風に言っていることです。

進歩は終わるんです、どこかで。

究極のユートピアみたいのがあって、そこに到達したときに進歩は終わる。完璧な世界がヘーゲルの中で規定されているのです。

もちろん、凄く重要な本ではありますが、よっぽど暇なとき以外は手を出さないほうがいいと思います。マジで心折れますので。

他にも、僕は野球のイチローが好きですけど、イチローが言っていることはまさにこれですよね。

あの人っていうのは、凡打の中から全てを見出していくわけです。現状ヒットにならないアンチテーゼの状況があって、それを何度も何度も『止揚(アウフヘーベン)』の連続によって改善していく。

なので、

イチロー
凡打が多ければ多いほど自分は成長できる。

と、彼は言っているわけです。

凡打が多いということは、進歩の過程が多い。だから、さらに高みを目指せるという発想です。非常にヘーゲル的だと思います。

いずれにせよ、こういう発想というのは我々の中にベッタリと染み付いている。

そのため、近代というものを理解しないと、今生きている人たちのことなんてやっぱり理解できないんですよ。

ヒデ
さらに、近代的な世界観、人間観、そして歴史観。このようなものが「革命」を生み、その結果近代化は促進されていきます。

近代化に必要な3つの革命

科学革命・市民革命・産業革命

近代化を促すためには、3つの革命を経る必要がありました。

それが、

・科学革命
・市民革命
・産業革命

です。

この3つの革命を生んだのは、元を辿れば『啓蒙思想』

厳密にいえば、産業革命にはもうちょっと違った条件が必要ですが、思想的にはどれも啓蒙思想がバックボーンになっていることに違いはありません。

以下で、1つずつ詳しく解説します。

 

①科学革命

科学革命は、啓蒙主義によって醸成された「近代的世界観」により生まれた革命です。

この革命の担い手は、ガリレオ、ケプラー、コペルニクス、ニュートンの4名。この人たちの功績によって、17世紀大規模な変革が起きました。

ヒデ
例えば、地球が回っていたりとか、リンゴが落ちたりしながら科学革命は達成されたわけです。

ちなみに、これは「脱宗教化」とも言えます。

なぜなら、神の意思によってモノが動いているとかではなく、しっかりとした物理の法則として記述し始めたからです。

ただ後述しますが、ガリレオ、ケプラー、コペルニクス、ニュートンの4人は全く脱宗教化はできていないので、そこは勘違いしないでください。

この人たちは、凄まじいほどの宗教的な情熱を持って科学的な研究を行なっていました。

そこから大体、ディドロ(百科全書派)の時代まで100年ほどの時間がかかって啓蒙主義がピークとなり、神様が生理現象と同列に扱われるようになる。

つまり、ガリレオやケプラーの時代は、まだまだ絶対的な神が存在していたのです。

これは後から説明しますが、世界観っていうのはそんなにコロッと変わったりしないので。

昨日まで神様が絶対だったのに、

「今日から生理現象と一緒!」

・・・みたいな。

そんな急に人間は変われませんから。この時代から何代か経ることによって変わっていくんですが、一応脱宗教化のスタートはこの辺りにあると言えそうです。

ヒデ
いよいよ、神が死にかけてきたわけです。

 

②市民革命

市民革命は、近代的人間観における”人権思想”を拠りどころにした革命です。

要するに、

「王様とか貴族とか教会とか、あいつらだけがいい思いをして、俺たちは何でこんなに苦しい思いをしなくちゃいけないんだ」

「人間、みんな平等に権利を持ってんじゃねーのかよ!」

みたいなことを市民が言い出して、大規模な革命が起きた。

有名なのは以下の4つです。

・清教徒革命(イギリス)
・名誉革命(イギリス)
・フランス革命(フランス)
・アメリカ独立戦争(アメリカ)

で、短絡的に言ってしまえば、これは『脱権威化』ですよね。

自由や平等を獲得していこう、基本的な人権を万人に与えていこう、という運動ですから。

当然、権威みたいなものは否定されていく。

権威性を否定するということは、何かの絶対性を否定していくこととほぼ同義なので、国王や領主や教会の力はどんどんと無くなっていくわけです。

 

③産業革命

産業革命は、近代的世界観と科学革命を背景に生まれた革命です。

時期的な話をすると、1760年代にイギリスで初めて産業革命が起こり始めます。そこから遅れること数十年、ベルギーとフランス、続いてアメリカ、ドイツ、ロシアと順次各国でも起こり始めました。

ちなみに、日本は1900年頃にならないと本格的な産業革命は始まりませんので、かなり遅いです。

そう考えると、先ほどの市民革命もそうですけど、イギリスがやっぱり早いですね。

ヒデ
当時は、世界最強のイギリス様ですから全部が早い。

そして、産業革命がもたらした思想的な意味としては、働く場所が限られなくなったことだと言えます。

それまでは、例えば親の家業を継がなければいけないとか、徒弟制度がガッチリと組まれていて12歳になったら誰々さんのところに弟子入りしなきゃいけないとか、あるいは農民だったら同じ土地を一生耕し続けなきゃいけないとか、土地に縛られていたわけです。

それが、

「ちょっとドイツに出稼ぎに言ってくるわ!」

みたいなフランス人が出てきたり、色んなところに労働者がウロウロと移動し始めたりするようになりました。

これを僕は”脱土地化”と呼んでいますが、このような背景を生んだのも産業革命だといえます。

 

これら3つの革命をまとめると

これら3つの革命をまとめていくと、啓蒙主義がまず「科学革命」を生みました。理性的かつ合理的な発想によって、科学的な知識が急速に進歩していった。

そして同時に、自己規律的な方向に向かっていくと、最終的に「人権思想」を醸成します。

さらに科学革命が起こって、その進歩が「産業革命」の土台になっていったわけです。

ヒデ
つまり、脱宗教化・脱権威化・脱土地化が推進されたというのが、この3つの革命の思想的な意義です。

言い換えれば、近代とは脱宗教化・脱権威化・脱土地化なくしてはあり得なかった。

絶対的な神がいたら科学的な発想は生まれてこないし、脱権威化しなければ当然人権は制限されてくるし、土地に縛られていたら資本主義も発展しない。

資本主義の特徴の1つ「拡大再生産」という言葉で表現されますが、同じ土地を耕しているだけだったら拡大しないですよね。

まぁ、ここまで挙げたようなことが思想的には凄く重要なんですけど。

しかし、ですよ。

 

しかし・・・

一般的には、これら3つの革命が近代化を促したというのが普通の議論だと思います。

そんなに熱心に色々な近代に関する本を読んだわけじゃないですけど、この3つの革命が近代化を促したという主張が書かれている本がわりと多いと思うんです。

で、この3つの革命を経れば近代化するみたいな話に繋がっていくんですが、これだと「不完全だよね」というのが僕の今日の主張です。

これら3つの革命は、近代化に必要な一側面でしかありません。

例えば、冒頭で書いた「近代を支える3つのエンジン」のうち”二元論”と”主権国家”という視点からの考察が欠如しています。

(これは後編で詳しく説明するんで、今は置いといて構いません。)

さらには、宗教的世界観から完全に脱しきれていないというのが1つ重要な視点としてあります。

これらの革命が起こったから、

「はい、神様死にました!」

みたいにならないところが、この議論では不十分な大きな理由だと僕は思っているんですよね。

そこで今から、当時の人々が「いかに宗教的世界観から脱しきれていないか」という事例をいくつか紹介していきます。

ニュートンは科学者なのか?

ニュートンの万有引力

ニュートンの経歴

ニュートンは、「本当に科学者なのか?」って話です。

恐らく、多くの人が抱いているイメージは科学者だと思います。

科学革命の主役だし、

「ニュートンと言えば何ですか?」

と問われれば、

「科学者だよね」

と普通は答えるはずです。

でも、本当に科学者なんだろうか、ということを今議論したいわけです。

彼の簡単なプロフィールは以下の通り。

アイザック・ニュートン

サー・アイザック・ニュートン(英: Sir Isaac Newton、1642年12月25日 – 1727年3月20日)は、イングランドの自然哲学者、数学者、物理学者、天文学者、神学者。

おもな業績としてニュートン力学の確立や微積分法の発見がある。

出典:ウィキペディア

万有引力の法則で有名な人です。あのリンゴが落ちるとか落ちないとかっていう話ですね。

ニュートンが生まれたのは1642年なので、一応科学革命以後の人。だから、普通は科学者という風に呼ばれることが多いんですが、ここで1つまた真相を探ってみたいわけです。

 

科学の成り立ち

科学者って英語で言ったら、『Scientist(サイエンティスト)』です。

この言葉は、実は19世紀に作られました。より厳密には、イギリスのウィリアム・ヒューウェルが1833年に提唱した造語だと言われています。

ちなみに、ヒューウェルはこんな感じの人↓

ウィリアム・ヒューウェル

出典:Wikipedia

カント流の合理主義的科学哲学を展開し、英語において「科学者(scientist) 」という言葉を発明した人物としてよく知られています。

それ以前にも「science(サイエンス)」という単語は元々あって、シェイクスピアとかにも出てくるんですけど、これはラテン語の「scientia(知識)」が由来です。

で、これを動詞にすると、ラテン語の「scire(知る)」になります。

ヒデ
当たり前ですけど、シェイクスピアに「science」と出てきてバカ正直に「科学」と訳す人はいないと思います。元々は「知識」という意味があったんですね。

しかし、ヒューウェルは、この「知識」という単語にあえて「科学」という単語を当てた。これが19世紀のことです。

で、時同じくして、19世紀のイギリス知識人の権化みたいな人にトマス・ハクスリーという人がいました。

トマス・ヘンリー・ハクスリー

出典:Wikipedia

もしかすると、1932年刊行のSF、ディストピア小説「すばらしい新世界」を書いた孫のオルダス・ハクスリーのほうが有名かもしれません。

オルダスは、医者を目指して高校に入学しましたが、角膜炎から失明同然になり退学。視力回復後、大学で英文学と言語学を学んで作家になったという面白い経歴の持ち主です。

他にも、ハクスリー家には著名な科学者とかいっぱいいて、天才ばかり生み出している変な一家なんですけど。

僕が最も印象に残っているは、「何かについての全て、全てについての何かを学ぼうとしなさい」というトーマスの言葉ですかね。

要するに、「全部学べ!」ってことなんですが、それくらい知識の権化みたいな人がいたわけです。

で、このトーマスがですね、ヒューウェルが考案した『scientist(サイエンティスト)』という単語を聞いたときに、

トーマス・ハクセリ
なんて醜い言葉なんだ。どうせ英語もロクにわからないアメリカ人が作った言葉だろう。

という風に言ったわけです。

つまり、英語としておかしい。英語が分かっている奴は、こういう単語は絶対に作らないと言ったわけです。

だけど、ヒューウェルだって物凄い知識人なので、わざと皮肉を込めて付けてるんですよ。

ちなみに、これ何で醜いか分かりますか?

結論から言うと、scienceに『ist』を付けたのがトーマスは気に入らないのです。

人を表す接尾語って色々ありますけど、まぁ有名なもので言えば『ian』とか『ist』がありますよね。

何か適当に音的についてるとかっていうのは、凄い優れたアメリカ的な発想で、厳密に英語的には使い分けられています。

例をいくつか出せば分かると思うんですけど、例えば「ミュージシャン(Musician)」というのがあったとしたら、ピアニスト(pianist)、ギタリスト(guitarist)、バイオリニスト(violinist)等など・・・。

何となく分かります?

イメージ的に『ian』は広くて、『ist』は狭いです。

ここで思い出して欲しいのは、「science(サイエンス)」っていうのは、当時の意味では「知識」でした。つまり、体系として物凄く広いわけです。

さらに言えば、『ist』はどちらかと言うと専門的、職業的なものを表す言葉。お金を稼ぐために技術をマスターしている人みたいなイメージがあって、崇高な知の体系をどうこうしようというようなものに付く単語じゃない。

だから、トーマスは醜いと言ったのです。

でも、ヒューウェルからすれば、

ウィリアム・ヒューウェル
科学ってもう”知識”とイコールではないでしょ!

・・・と。

そして、

「知識の体系の中の物凄い一部の狭いことをなんかこねくり回しているよね、君たちは。そして、その科学技術を使ってなんか色んな機械を作ったりしながら、お金稼いだりしてるよね?それは『ian』とか付けていいような営みではもうないでしょ!」

という皮肉を込めたかどうかは分からないですが、多分込もっていると思うんです。

だから敢えて『ist』を付けた。

その意味で、ニュートンをまた思い出して欲しいんですが、本当に「彼は科学者か?」って話です。

 

ニュートンの魂

結論から言うと、ニュートンがやったのは科学の発見とか進歩とかではなく、宗教的な研究なんですよ。

まず、彼は何をやったか?

まずオカルトの研究を熱心にやってました。あとは神秘思想の研究をやってます。そして、錬金術を大真面目に研究しています。

一応、Wikipediaの記述も載せておきます。

【錬金術研究と聖書研究】
研究としては、造幣局に勤めてからは錬金術に没頭した(現代の科学者が“科学的”と呼ぶ類の研究は行っていない。そうした類の業績が発表されたのは1696年の入局までの53年間である)。

出典:ウィキペディア

さらに、彼は「万有引力の法則」を何と言ったか?

ニュートン
神の意思だ。

と言ったんです。

これは、ニュートンに限らないです。ガリレオもケプラーもコペルニクスもそうです。

なぜ、数式で表現できたのか?

「神が作ったものが汚いはずがない。美しい形で表現できるものしか神は作らない。全能だからグチャグチャしているはずがない。」

という信念があったからです。

つまり、彼らがやっていたのは、宗教的な情熱に支えられた研究なのです。

例えば、なぜニュートンが錬金術を一生懸命研究したか?

価値のない鉄くずが、価値のある金に変わったときに魂が浄化されると思ったからです。極端な話をすれば、神の意思に適うためにやっているわけですから、我々が言うところの科学者では全くない。

どちらかと言えば、やっていることは「哲学者(philosopher)」ですよね。

philosopherって言うのも、哲学者って訳が当たっちゃいましたけど、確かその言葉を作ったのは西周ですけど、元々は”知を愛する者”なので「愛知者」というのが正しい日本語だと思います。

要は、単に知を愛していただけです、彼らの場合。

だから、別に科学としてやっていたわけじゃなく、ただ神を愛し、知を愛し、ひたすらに研究をしていただけなのです。

だから、ニュートン含め、科学革命の担い手達が「本当に科学者なのか?」と問われれば甚だ疑問です。

言ってしまえば、科学革命のモチベーターが神ですから、これで近代化が促されたって言われても、さすがに飛躍を感じざるを得ない。

ニュートンからすれば、

ニュートン
神のためにやったのに、何で神が死ぬんですか?

みたいな話にもなってきます。

つまり、その間を埋めないといけないだろう、ということです。

デカルトって・・・

デカルトの本性

ルネ・デカルト

出典:Wikipedia

デカルトといえば「我思う故に我あり」。コギト・エルゴ・スムの議論で有名です。

大陸”合理”論の創始者とも言われており、二元論を使いながら要素還元主義とかをガリガリ推し進めた人です。

また、彼は「物心二元論」というものを提唱しました。厳密には”延長実体”という風に言いますけど、体と心は分けて考えなきゃいけない、体は単なる物体でしかないという世界観を提示したのもデカルトです。

他にも、機械論を唱えたり、デカルト座標(xy座標)を発明したり、彼は一見凄く合理的に見えるんです。で、実際ちらっと「方法序説」とかを読んだくらいの人だと、非常に合理的な人だなっていう印象になると思います。

では、本当はどうなのか?

まず大前提として、デカルトは敬虔なクリスチャンで、神様を凄く信じている人です。

「神を否定した」なんていう風に断言している解説書もあるんですけど、否定なんかできないですよ。だって、彼はクリスチャンなんだから。

そして、彼の議論をつぶさに追いかけていくと、同時代の色んな人からたくさん批判されていました。

「でもさ、心と身体が分かれているって言うけど、なんか病は気からみたいな話もあるしさぁ」

「心と身体が完全に分かれていたら、どうやって関係させるの?」

みたいな感じで、素朴な批判から何から色々されている。

そんなとき、デカルトは脳の奥の『松果腺』という体の器官の1つに答えを求めますが、神様がそこにいるから精神と身体は相互作用を起こすんだ、と。

あるいは、コギトエルゴスムの議論では、疑っている我自身が”確かである”という風に断言できるのは、私の精神が担保されているのは神だから、その絶対的な神が作り給うた我自身は疑いようがないだ、とか。

他にも、惰性の法則や運動量保存の法則は、全て神によって保持されると明言しているし。もう最後のほうは、神様とかごちゃごちゃ出してきちゃったもんだから、後期のデカルトは「辻褄が合ってない」と各方面から批判されるわけですけど。

いずれにせよ、デカルトは表面的に見ると凄く合理的です。しかし、それを根底で支えていたのは実はかなり宗教的というか”神様ありき”みたいなところがあったのです。

ヒデ
デカルトは、このような宗教的情熱に支えられて生きていた人です。ガリレオとかケプラーとかと基本的には大差ありません。

 

 

17世紀の天才たち

ちょっと余談ですけど、デカルトが生きた17世紀っていうのは、天才の世紀だと言われています。

いわゆる、ニュートンとかガリレオとかも含めて、天才がいっぱい生まれた時代なんですよ。

その中でも、天才中の天才と称されているのが、ドイツの哲学者ライプニッツです。

ゴットフリート・ライプニッツ

出典:Wikipedia

哲学の方面に明るい人は、ライプニッツと言えば『モナドロジー』の概念で知ってるだろうし、数学的には微分積分の記号とかで有名な人です。

まぁニュートンが先か、ライプニッツが先かみたいな議論でよく知られた人ですが、彼は数学者でもなく哲学者でもなく、単なるフィロソファー。

知を愛する者です。

ライプニッツは、自身の著作をフランス語とドイツ語とラテン語で書き分けるんですけど、その全ての著作をドイツ語に翻訳しようというプロジェクトが2000年頃から始まりました。

で、プロジェクトが発足した当初、恐らくあと80年くらいで終わるんじゃないかと言われてたんです。

もうね、とにかく信じられないくらいの量の本を書いていて、ライプニッツが全体を通して「何を考えてたか?」なんて誰にも分かってない。日本でもライプニッツの著作集とか出てますけど、それはほんの氷山の一角に過ぎない。

天才ばっかり生んだ17世紀の中でも、天才中の天才と評された男です。

 

何故、天才たちは神を信じるのか?

ここまでの話をまとめると、いわゆるニュートンにしても、デカルトにしても、ライプニッツにしても、キリスト教自体は絶対的に信じていました。

とはいえ、彼らみたいなずば抜けて頭のいい人たちが、

「なぜ神様を信じていたのか?」

という点は、非常に疑問だと思うんです。

僕にも、何でそこまで信じているのかっていうのは厳密には分からないんですけど、たぶん理屈で考えていって「神がいないとおかしい」という風に論理的に辿り着いたが人が大半な気がします。

もちろん、各々で理由は違うと思いますよ。だけど、僕が知っている限りの天才たちの議論を見てると、そんな人たちがわりと多い。

キリスト教では、第一人者という言い方をしますが、神がいなかったから世界ができるはずがない、と。

それをキリスト教の神に求めるか、他のものに求めるかはまた別の話ですが、第一人者というものを想定しなければ、今我々がここにいるってことの説明が一切付かなくなってしまう。

つまり、論理的な帰結として、神の存在を信じてる人が多いのではないかと個人的には考えています。もちろん、全員ではないですけどね。

ホッブズと神

リヴァイアサン

リヴァイアサンの正体

ちょっと違った視点から語ります。

トマス・ホッブズは後編で詳しく話しますが、たぶん名前くらいは知っていると思います。

合理主義・個人主義・自由主義を体系的に展開した政治哲学者であり、社会契約論について書かれた本『リヴァイアサン』で有名な人です。

トマス・ホップズ

出典:Wikipedia

社会の教科書とかでは、「近代的個人を理論的に確立し、社会契約思想の生みの親とされる」という風に言われることが多いと思います。

社会契約思想なので、理性に則って合理的に契約していくわけですが、それを最初に理論化したのがホッブズです。一般的には、ガリガリと近代的な個人、近代的な社会契約、近代的な国家みたいなものを確立していった人のように思われがちですが、

「本当にそうなのか?」

ってことを考えてみたいんですけど。

そもそも論、リヴァイアサンって何ですかね?

ご存知の方もいるかもしれませんが、旧約聖書に登場する”海獣”のことです。

嫉妬や詐欺を司る悪魔で、聖書の中では神との対比として出てきます。どんな対比かと言えば、リヴァイアサンは獰猛で絶望的な強さを持っていますが、いつか死ぬ。だけど、神は死なない。

こういう対比の中で、リヴァイアサンは出てくるわけです。

で、ホッブズくらいになれば当然聖書なんかは何万回も読んでいるだろうし、それを知っててこのタイトルをつけたはずなんですよ。

つまり、この海獣に”強い国家”の姿を重ね合わせ、国家や宗教、社会に関する主張をまとめたのが『リヴァイアサン』なのです。

このような背景を感じながら著作を読んでいくと、以下のような記述があります。

トマス・ホッブズ
不死なる神の下で可死なる神の恩恵をこうむっているのだ

・・・と。

不死なる神とは「キリスト教の神」のことであり、可死なる神とは「国家(=リヴァイアサン)」のことです。

平たく言えば、全知全能の不死身の神がいて、我々はその神の下で国家の恩恵を被っている。ホッブズによれば、国家とは国民の安全を守るために存在するものですが、それは不死なる神がいて初めて成り立つものだと言っているのです。

つまり、ホッブズは神の存在を自明のこととして社会契約論の理屈を組み立てたわけです。

 

神 vs 国家

「主権国家体制」については後編で詳しく書きますが、主権とは何者にも邪魔されない権利のこと。絶対的な権力のことです。

あまり聞き慣れない言葉かもしれませんが、国家が主権を持った体制のことを「主権国家体制」と呼ぶので、なにも難しい概念ではありません。

つまり、他の外国からの干渉を許さず、国家の中のことはその国が全部決めていいよ、と。

国家より上位の権力を認めず、国家間が対等な立場に置かれることを前提とした政治システムであり、現代の国際関係は基本的に「主権国家体制」だといえます。

で、話を戻しますが、ホッブズもこの主権を国家に与えようと議論している。

しかし、そうすると都合の悪いことが起こります。当時は、神様が絶対的な権力を持っていたので、国家にも主権を与えてしまうと主権者が2つになってしまう。

そこで、ホッブズは苦肉の策として”あっちの世界”と”こっちの世界”という分け方をしました。

あっち側は神様が納めていればいいんじゃない、と。でも、こっち側は我々が納めようや、と。

そして、

トマス・ホッブズ
どの神様を信じるかは、こっち側の主権者である国家が決めればいいじゃない。

ってことをホッブズは言ったわけです。

この辺りの話は次回以降でやりますが、どうしても苦し紛れ感は否めない。でも、彼にとっては神様が自明だったので仕方ないんですよ。

そして、この例からも明らかなように、やっぱり”脱宗教化”は全く出来ていなかったんじゃないかと思うわけです。

最後に

ちょうどキリが良いんで、続きは次回以降に譲りたいと思います。

途中から話が駆け足になってしまいましたが、啓蒙思想だけでは宗教性ってものをゼロにできないことが何となく分かって貰えてきたかなという風に思います。

大体、科学革命のモチベーターが神ですから、当時の人たちが脱宗教化できているかって言われたら「?」ですよね。

もちろん、中にはラディカルに無神論者みたいな人もいたかもしれません。だけど、多くの場合は宗教的な情熱に支えられた研究だったのです。

ヒデ
で、ここからはちょっと余談になります。

日本で近代的な個人というものを作っていこうとしたのが、明治維新以降の主眼なわけですけど。

一概に近代的な個人と言っても、ホッブズ的な個人なのか、あるいはルソー的な個人なのかでも全く異なります。

これは次回の「主権国家体制」のところで詳しく解説しますが、我々日本人は極めてホッブズ的な個人です。世界で最もホッブズ的だと言っても過言ではないでしょう。

(ちなみに、アメリカ人とかはルソー的です。)

でも、そういうことは誰も説明しない。日本の教育カリキュラムの中では、都合の悪いことは絶対言いません。

要は、誰も社会契約論とか面倒くさがって読まないよね、と。

国家にとって都合のいい国民を作るために、

「都合の悪いところは言わないで、都合の良いところだけ言っとこうぜ!」

みたいな魂胆が見え見えなんですよ。

事実関係が確認できないので断言はしませんが、たぶん間違いないと思います。

まぁ、そんなところで今回はお終いにします。質問や疑問などあれば、こちらからドシドシと送ってくださいね。

後編はここから読めます↓

近代化の特徴

2.近代化の始まりと特徴(下)~人はいかにして神を殺したのか~

2020年10月28日
近代化の特徴

ABOUTこの記事をかいた人

現代社会のあり方に疑問を感じて、最強のフリーターを志す。東日本大震災を機に自立を決意、2011年起業。現在は海の町で暮らしながら、主に執筆活動・企業コンサル・FX投資などを行い、個人ビジネスの究極形を追求している。波乗りと旅と平和が好き。読んだ人が「何か」を感じてくれて、その人の「何か」が良い方向に向かっていくようなメディアになれば嬉しいです。