4.哲学的な、美しい問いの作り方

哲学的は問い

こんにちは、矢島秀人です。

昔、哲学の先生が、

哲学の先生
「時間とは何か?」みたいな問いを立てて、「俺って結構哲学的な考えに耽っているぜ!」と勘違いしている人が多いけど、その問いは全く哲学的ではない。

という風なことを仰っていました。

先生によれば、「時間とは何か?」とか「個とは何か?」とか「精神とは何か?」とか、まぁ対象は何でも構いませんが、このような問いは”独りよがりな問い”であって決して哲学的な態度とは言えない。

なぜなら、

「『時間とは何か?』という問いは”時間的な仕方”ではないからだ。時間を時間的な仕方で捉える営みこそが哲学である」

・・・と。

この話を初めて聞いたとき、20代の若僧だった僕は「なるほどなぁ」と目が覚めるような衝撃を受けました。

今日はその話をしようと思います。

「〜的な仕方で」ということ

僕はよく「〜的な仕方で」という言い方をするのですが、「〜的な仕方」とは一体どういう意味なのか?

例えば、こんな風に使います。

・時間を時間的な仕方で考える
・個を個的な仕方で考える
・クライアントをクライント的な仕方で考える

これは一体どういうことなのか?

あくまで一つの例ですが、20世紀最大の哲学者とも言われるハイデガーは時間について凄く考えた人ですけど、彼的な哲学を踏まえるのであれば、

「私は私の時間であるか?」

というのが正しい時間の問い方であって、「時間とは何か?」という問いは正しくない。

あるいは、個を個的な仕方で問うとすれば、「個とは何か?」と問うたらダメで、

「私は個であるか?」

という問い方が正しいんだ、ということをその先生は仰ってました。

要するに、時間とは何かと捉えたときに、それは「コップとは何か?」「パソコンとは何か?」という問い方と一緒ですよね。

しかし、実際に我々が生きている現実の中で、自分というものを離れて全く関係のない『時間』とか『個』とかは存在し得るのかということを考えたとき、

「そんなものは無いよね」

・・・と。

それは単なる言葉(概念)遊びであって、現実にある『時間』とか『個』とかいうものを考えるにあたっては全く意味をなさないじゃないか、と。

これでは、現実の世界を丸ごと描写できているとは到底言えません。

だから、哲学とは形而下(形のあるもの)のことを考える営みだと僕は思っているんだけど、そうすると「時間とは何か?」という問い方は形而上(形のないもの)の話になってくるわけで。

つまり、それは現実に根ざさない、自分とは完全に独立してしまった対象として捉えているわけです。

図にすると、こんな感じ。

哲学的な問い

自分が主体で、対象が客体になる。

いわゆる、我々の知っている言葉でいえば近代西洋的な『二元論』の図式に乗っかります。

だけど、時間とは私が感じる時間以外ではあり得ないし、個とは私が感じる個以外ではあり得ない。

そもそもとして、時間とか個とかいうのは「”主体側の住人”でもあるよね」というところが根本にあるわけです。

そのため、

「私は私の時間であるか?」

「私は個であるか?」

という問い方が一例として出てくる。

つまり『〜的な仕方で』とは、対象を主体と客体に分けて捉えるのではなく、そのまんまの態度で”ここにあるあり方”で問うていくべきである、と。

そして、問う者が”問いの外”にあることをやめるとき、すなわち「問う者」と「問い」の両者が一つになることがもっとも深い意味においておこなわれるとき、解決はこの一体性の中からおのずと生まれてくる。

これこそが、正しい哲学者の態度である、とその先生は言われました。

クライアントをクライント的な仕方で考える

矢島秀人
僕がこの話を初めて聞いたとき、ビジネスと呼べるほどのビジネスはまだやっていませんでしたが、商売の真似事みたいなことはやっていてハッと気付いたんです。

自分は、

「クライアントをクライアント的な仕方で考えていたかな?」

・・・と。

英語で書かれたようなビジネス書を読んでいると、顧客の靴に足を突っ込んで生活するみたいな表現がよく出てきます。

要するに、これは「お客さんになりきれ!」というような意味合いなんだけど、ほとんどの場合上手くいかない。

他にも、ペルソナを作ってみたいなことを言っている人がたくさんいるけれど、どうして上手くいかないのか?

なぜ、そうやって頑張ってお客さんになりきり、念入りにリサーチして得た情報をもとに企画したものが当たらないのかと言うと、それはお客さんと自分が分かれちゃっているからですよね。

問いの作り方

あくまでも、自分とは一切関係のない何かとしてお客さんを捉えようするから、いつまで経ってもその本当のあり方がわからない。

クライアントのあり方がわからないから、クライントに響くものが作れない。だから企画が外れてしまう。

このような悪循環から抜け出すためには、クライアント的な仕方で考える必要があります。つまり、主である自分を客側に移していくような努力が求められるわけです。

で、どうやって移すのかというのはまた色々難しい話になってくるので、一言では方法を形式化できないけれども、そのような意識を持っているかどうかで得られる結果は大きく変わってきます。

他にも、僕は日頃から「顧客アンケートは、あくまで参考程度ですよ!」という風なことを言ってますが、これも全く同じ理屈です。

アンケートとは、お客さんそのものではなく『対象』でしか過ぎません。

自分とは異なる何か別のものがあって、それがお客側にポーンっと渡ってくると。で、そのアンケートはお客にとっても何か別の対象なわけで、そうするとお客が主体になってアンケートが客体になる。

そして、それがまた自分の側に戻ってくるわけだから、結局上っ面しか見えないでしょと(汗)

よくアンケートの結果を信じて企画をしたら外れるのは、こういう理由があるからなんです。

このように「~的な仕方で」というのは、ただ哲学的な営みをするだけではなく、この現実社会を生きていくうえでも大切になってきます。

あるべき仕方で、あるようなあり方で物事を考えていく。

重要なことですが、同時に凄く難しい。なぜなら、僕らにはプラトン以来の伝統が染み付いていて、ちょっと油断するとすぐに両者を分けた考えになってしまうからです。

そのため、僕は普段から「〜的な仕方で」問うということを非常に大切にしています。

教養のある人ない人

「〜的な仕方で」という話に関連して、教養のある人ない人というサブタイトルを付けました。

僕らはこうやって一生懸命勉強して、例えばビジネスの勉強もすれば、哲学を勉強している人もいるだろうし、あるいは語学を勉強している人もいるかもしれない。

いずれにせよ、重要なのは「なぜ勉強するのか?」ということです。

もちろん、それ自体が楽しいという場合もあるけれど、大体の場合は世界をより正しく捉えたいという想いがどこかにあるはずです。

真理とか真実とか、そういうものをちょっとでも知りたい。そして、自分の生活や人生、周りの人の生活や人生を豊かにしたいという想いがあるから勉強していくわけです。

つまり、世界が『主』で知識は『客』。まず世界があって、それを正しく理解するために知識を使う。

しかしながら、よくよく勉強している人は実感があるかもしれないけれど、大体これが逆転します。特に、勉強を一生懸命やっていけばいくほど逆転する。

どういうことかと言うと、自分の持っている知識に世界を当てはめるようになってくるんです。

科学哲学者のトーマス・クーンが提唱した『パラダイム』という概念は、まさにこの現象を的確に表した言葉であって、自分が知っているようなあり方、都合のよいあり方でしか世界を見れなくなる。

この現象をアリストテレスは非常に上手く表現しています。

道徳的な善さと理論的な知識に同程度の厳密さを求めることこそ、教養のなさの表れである。

-   アリストテレス  -
(古代ギリシアの哲学者)

つまり、どういうことか?

知識っていうのは、あくまでも世界を把握するための従属物であるはずなのに、これが理性的な勉強をすることによってグングン伸びてきて、”主”とは言わないまでも『イーブン(対等)』の立場になるまでに地位を上げてくる、と。

それこそが、”教養のなさの表れである”とアリストテレスは言っている。

矢島秀人
これは暗に何を批判しているかと言うと、プラトン哲学を批判しているんですけどね^^;

プラトンは、イデア(理想や理念)を求めました。

現実の世界に何かがあるんじゃなくて、現実を超越したところにイデアがあって、これに至ることが真理であり善であるというのがプラトン哲学の根本にはある。

要するに、プラトンの世界では、知識やイデアのほうが完全なる「主」となり、あくまで現実はそれの投影に過ぎないと言っているわけだから「従」になっちゃう。

でも、

アリストテレス
そんなのはおかしいでしょ!

とアリストテレスは言っているわけ。

ちなみに、ソクラテスもこっちの世界というものを重視した人で、

ソクラテス
最も大切にしなければならないのは、 ただ生きることではなくて、善く生きることである。

という言葉が非常に有名ですが、現実をいかに善く生きるのかを考えた。

でも、弟子のプラトンは何だか分からないけど、イデアの哲学というものを打ち立てていった。だから、ここでは詳しく話さないけど、スピリチュアリズムの源流は大体プラトンにある。

プラトンが色んな形に変えていったのが、いわゆる神秘主義であって、現代にはスピリチュアルとして残っている。

このプラトニズムというのは、現実を超越したイデアを求めますから、霊とか魂とかそういうものを当然求めていくし、「高次元の・・・」みたいな言い方にも非常にふさわしく当てはまる。

厳密にいえば、プラトン自体はそういう言い方はしないけれど、後続の研究者たちがスピリチュアルのような形で発展させていったのです。

特に、プロティノス(205年? – 270年)というエジプトの哲学者がいて、このひとは徹底的にプラトン哲学を神秘主義化していきました。

だから、この人の本を読むと、いかにプラトン哲学が現代のスピリチュアリズムに大きな影響を与えているかがよく分かる。

まぁ、いずれにせよプラトンの考え方を突きつめていくと、現実を軽んじて、存在するかしないか分からないイデアの世界を重んじることで本末転倒なことが起こってきます。

それに対して、「そんなのおかしいだろ!」とアリストテレスは言っているわけです。

なぜ、おかしいのか?

特に、現実的な仕方で考えれば、あまりに非の打ちどころのない「理念(または理想)」は現実と錯覚されるからです。

例えば、最近の例で一番わかりやすいのは、アメリカが中東に仕掛けている一連の武力行使があげられます。アレというのは、正義であるとか、自由であるとか、民主主義であるとか、人権であるとか、非常に崇高な理念が打ち出されている。

そして、それが正しいとみんな思うから、戦争に賛成するわけ。

つまり、それを打ち立てることが現実的に正しいことなんだと錯覚するんです。

矢島秀人
だけど、その結果はいつも明らかで、ほとんどの場合上手くいかない。

なぜなら、ある問い、問題、悩みの答えは「現実」の中にのみ存在するからです。

いくら次元を変えて考えたって答えは出てこない。

問いの作り方

現実の世界と理想の世界があって、何かしらの問いがあったら、その答えは必ず主である「現実」の側になければいけない。

理想の世界に答えがあるなんてことは原理的にあり得ないし、プラトンが神秘主義に傾倒したことからも明らかなように、イデアの世界とは人間の頭では認識できない、理性では捉えられない領域の話です。

だから、そんなところに答えなんてあるわけがない(ヒントはあるかもしれないけどね)。

例えば「人権は大事ですよ!」と言われたとき、すぐに反論できないでしょ?

そうやって現実と錯覚されやすいのが一番怖いところだと思います。

本来「人権は大事ですよ!」というのは、現実ではなく理想や理念の話です。だから、現実に生きる我々はすぐに反論することが難しい。

そして、全く世界が違う話をされているのに気づかないから、

「やばい、反論できない」

「なんでか理由は説明できないけど納得しちゃう」

みたいな感覚に陥ってしまうわけです。

だから、世間一般で「現実的に考えろ」というのとは少し違います。

世間一般で「現実的に考えろ」と言った場合、大抵は「背伸びするなよ」「無理するなよ」「お前の身の丈をわきまえて出来ることをやればいいんだよ」というようなネガティブなイメージが籠もっています。

でも、そうじゃない。我々に必要なのは、現実的に考えるというよりは”現実的な仕方で考える”ということです。

現実的な問いを持ってきているのに、イデアの世界の答えをいくら出して崇高なことを言ったって何の解決にもなりません。

特に、僕らっていうのは恐らく普通の人よりも人に何かアドバイスしたりするケースが多いわけだから、この辺の話を意識しておかないとクライアントを間違った方向に導いてしまいます。くれぐれも気をつけましょう。

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3.職業としてのコンサルタント

2021年4月16日

無敵のソクラテス

ソクラテスが求めたもの

先ほども出てきましたが、ソクラテスという男は一体何を求めたのか?

それは先述した通り、いかに善く生きるのかを求めた。

つまり、哲学とは、この現実世界における善を考えるものであって、「善とは何か?」という問い方によって出てくるイデアの世界の善を考えるものではないという風に考えた。

だって、僕らは現実に生きているわけだから、現実を全く離れてモノを考えることに意味があるのかってことを考えたときに、

「ないんじゃねーの!」

とソクラテスは思った。

で、ソクラテス以前の哲学者と言われる人たち、例えばタレスだとかアナクシマンドロスとかアナクシメネスとかヘラクレイトスとか色々いますが、そういう人たちの思想をソクラテスはいっぱい勉強した。

徹底的に勉強して、そして絶望したわけ。

ソクラテス
彼らは何一つ哲学的なことをしていない。

・・・と。

なぜなら、彼らはアルケー、つまり万物の根源について考えていた。

「究極的な根源って何なんだろう?」

「この机は、究極的には一体何でできているんだろう?」

「世界は何でできているんだろう?」

「木とか森とか人間って何でできているんだろう?」

ってことを考えて、水だよとか、いや火だよとか、いやアペイロンだよとか、なんか訳がわからないことを議論していた。

それは言ってしまえば、「プラスチックで出来てんじゃないか」とか、もっと専門的な人はプラスチックをさらに分解して、原子に分解して、素粒子に分解してってやっていたのがソクラテス以前の哲学者でした。

でも、ソクラテスは、

ソクラテス
違うでしょ!

・・・と。

ソクラテスは、「この机は何のためにここにあるのかを考えなきゃいけないんじゃないの?」ということを考えた。それが哲学の仕事だと思った。

何のために机は存在していて、どう使うべきなのか。

そういう現実の尺度を考えるのが哲学であるという風にソクラテスは考えたわけです。

 

ソクラテスvsソフィスト

で、ソクラテスは絶望して自分で真理を探求する旅に出た、そして有名なソフィストとの対決が繰り広げられる。

ソフィストとは「知恵ある者」の意味で、当時いわゆる頭がいいと評判だった人たちのこと。

そういう人たちにそーっと近づいていって、○○さん、○○さん、と。

ソクラテス
あなたは何でも知っているらしいね〜

と髭のおっさんが近づいてきて、話しかけられて人前で論破されるっていう辱めを受けるわけだけど、サブタイトルで『vs』と書いたのはお互いに求めていたものが違うからです。

ソクラテスは具体的現実を求めて、ソフィストは抽象的観念を求めていた。

もっと言えば、客観的なイデアの世界の真理を求めるのがソフィストで、主観的というか実存的という言い方のがほうが正しいけれど、現実世界における真理を求めたのがソクラテスです。

まぁ厳密に言えば、ソクラテスは一冊も本を書いてないし、実在してたかどうかも分からないんだけど、ソクラテスについて書かれた本を読んでいくと、絶対ソクラテスが勝つようになっている。

ソフィストと議論すると、ソクラテスが絶対に論破している。

最終的にソフィストが「すいませんでした」という立場に追いやられるように出来ているのはなぜかと言うと、ソクラテスのほうが頭がいいとか優れているとかではなく、そもそもの土俵が違うからです。

ソフィストは、現実の問題を言葉巧みに『理想(または理念)』にすり替えて議論して人々を先導している人たちでした。

一方、ソクラテスは現実を現実的な仕方で問うていた。そして、ソフィストに対しても変わらず、現実を現実的な仕方で問うていくわけです。

ソクラテス
現実は✕✕じゃないですか?あなたは●●と言っているけれど☆☆という例もありますよ。これについてはどう考えますか?

みたいな感じてやっていく。

要するに、現実における答えは現実にしかないんだから、ソクラテスの立場が現実側にあるなら絶対勝つようになっている。そして、言うまでもなくソフィストたちは矛盾する。

それは僕らが知っている言葉でいえば、科学は現実を上手く描写できないのと一緒です。

科学はイデアの世界だから、現実を数字みたいなもので綺麗に描写できないように絶対に矛盾があるし、説明できないものがあるし、例外や取りこぼしも出てくる。

そこをソクラテスは突くだけです。だから絶対勝つようになっている。

で、ソクラテスが鬱陶しいのは、どういう訳か知らないけど、ソフィストをこっそり自分の土俵に乗せてしまえるところです。

ソクラテスと対話をしていると、最初は何か他のことから話し始めるのに、ソクラテスの言葉に引っ張り回され、ついには必ずその人自身のことに話は及び、

「今はどんな生き方をしているか?」

「それまではどんな風に生きてきたか?」

を言わされることになるのです。

それに気づかないソフィストは「アホなんじゃない?」って見方もできるんだけど、要はソクラテスは事の本質である『現実の答えは現実にしかない』ということが分かっていたから、何やかんや言って無知蒙昧な「ただのオッサンです」みたいな振りをして近づいて、自分の土俵にさりげなく引っ張ってくることができる。

一方、ソフィストたちは、

ソフィスト
自分は何でも知っているから、どんなことを聞かれても大丈夫だ。

と思っているから、悠々とソクラテスの土俵に乗っかって、そんで死ぬっていう(笑)

そういう面白おかしい話だから是非本も読んでほしいんだけど、この例からもわかる通り、やはり現実における問題というのは現実的な仕方で考えていかないとダメなんだな、と。

前回の記事でも書きましたが、なぜ大手のコンサルティングファームに依頼しても会社の業績がよくならないのか?

彼らは数字とデータを並べ立てて「××ですよ、●●ですよ」と現状を分析はするけれど、それは本当の現状ではないからですよね。

色んなものを取りこぼした結果の綺麗なデータであって、現実の一部に過ぎないから実際の問題解決にはほとんどの場合なりません。

だから、現実の問題を解決したければ、現実的な仕方で考えられる人に話を聞かなければいけないし、我々はそういう人を目指さなければならないということです。

この章の話をまとめると、「善く生きるとはどういうことだろう?」という風に問うていったのがソクラテスで、「善く生きるとは何か?」と問うたのがソフィスト。

凄く乱暴な分け方をすれば、現実とは『何(What)』ではなく『どのように、いかに(haw)』です。

そのような違いがあるので、ぜひとも『何(What)』の罠にはまらないよう気をつけてほしいなぁと思います。

最後に

何かについて考えるとき、自分とは切り離して考える人は多いです。

しかし、そのような自分(あるいは自分の生き方)と切り離した知識ではなく、自分の生き方に関わる知を求めるのが哲学です。

例えば、僕が「宇宙」と言ったとき、当然銀河系宇宙、月やら星やらの宇宙物質を含めるんですけど、その宇宙を認識しているのは当然この「僕」ですよね。

宇宙は僕が認識することにおいて存在している。とすると、宇宙の中に僕がいるのか、僕の中に宇宙があるのか、よく分からなくなってくる。

そもそも宇宙という言葉は、最近では”物質的宇宙”という意味で一義的に使われることが多いけど、元々ギリシア語のコスモスという言葉の翻訳だから、その場合は物質的宇宙のみを指すものではなかった。

それが近代になると、物理学が非常に派手な業績をあげたものだから、すぐ銀河系ってものになってしまう。すると、そこに自分というものは入っておらず、客観的対象としての宇宙のみを観察することになる。

つまり、宇宙が客観的対象でしかないという感覚。その客観的宇宙に我々がいるということを当然考えるはずなのに、それを感じないという不思議さ。

まぁ、その辺の感覚の違いが、主観も客観も視野に入れた「哲学」と目に見えている物質世界のみを対象とする「科学」との根本的な違いなのかもしれません。

ちなみに仏教の世界では、この二元の消滅が「無為」であり「空」であります。

問いは決して問う者から引き離されるべきではないとするのが仏教者の立場であり、問いが問う者から離れるのは人間にとってごく自然のことですが、両者が二元的に分れている限り解決はもたらされないというわけです。

いずれにせよ、我々に必要なのは”現実的な仕方で考える(=ありのままに観る)”ということ。

特に、当ブログの熱心な読者さんは、普通の人よりも人に何かアドバイスをしたりする機会が多いわけだから、今日話したようなことを意識しておかないとクライアントを間違った方向に導いてしまいます。

相手が現実的な問いを持ってきているのに、イデアの世界の答えをいくら出して崇高なことを言ったって何の解決にもなりませんので。

そのようなことをしっかりと自覚しながら生きて参りましょう。

ではでは、最後まで付き合ってくれてありがとうございました。

哲学的は問い

ABOUT運営者

現代社会で生きることを早々と諦め、ノマドになる。税金や法律の都合上、2013年に一人株式会社設立。現在は海の町で暮らしながら、主に執筆活動・企業コンサル・FXトレードなどを行い、個人ビジネスの究極形を追求している。波乗りと自然と平和が好き。ブッダを敬愛してやまない。